政局に動きがあった。じっくりと記事を書く時間も、しばらく取れなくなるであろう。では早速、標題について語らせていただこう。
阿闍世王(あじゃせ・おう)の阿闍世とはサンスクリット語で「未生怨」(みしょうおん)の意である。未生怨のいわれは、父の頻婆沙羅王(びんばしゃら・おう)に世継ぎの子がいなかったのである。悩んだ父王が占い師に占わせた所、山中に住む仙人が死後に太子となって生まれるとの答えであった。
仙人が死ぬのを待ちきれない父王は、仙人を殺してしまった。やがて生まれた男子は、王の怨となると占い師が言ったことから、未生怨(阿闍世)と名づけられたのである。阿闍世王は成長して悪逆の提婆達多と組み、父を殺し、釈尊に反逆した。しかし、後に悔いて釈尊の弟子となり、仏典の結集(けつじゅう)等、仏法の外護に努めた。この数奇で重い宿業を負った阿闍世王についての御義口伝である。

希望の友えほん「あじゃせ王」
御義口伝 新987㌻、全710㌻
第三 「阿闍世王」の事
(中略)
御義口伝に云わく、日本国の一切衆生は「阿闍世王」なり。既に諸仏の父を殺し、法華経の母を害するなり。無量義経に云わく「諸仏の国王とこの経の夫人と和合して、共にこの菩薩の子を生ず」。謗法の人、今は母の胎内に処しながら法華の怨敵たり。あに「未生怨」にあらずや。その上、日本国当世は三類の強敵なり。「世者名怨(世とは怨と名づく)」の四字、心を留めてこれを案ずべし。日蓮等の類い、この重罪を脱れたり。謗法の人々、法華経を信じ釈尊に帰し奉れば、何ぞ已前の殺父・殺母の重罪滅せざらんや。
(中略)
「逆は、即ち順なり。非道を行じて、仏道に通達す」。「観解」とは、末法当今は題目の観解なるべし。子として父母を殺害するは「逆」なり。しかりといえども、法華経不信の父母を殺しては「順」となるなり。ここをもって「逆は、即ちこれ順なり」と釈せり。
今、日蓮等の類いは、「阿闍世王」なり。その故は、南無妙法蓮華経の剣を取って、貪愛・無明の父母を害して、教主釈尊のごとく仏身を感得するなり。「貪愛の母」とは、勧持品の三類の中、第一の俗衆なり。「無明の父」とは、第二・第三の僧なり云々。
御義口伝講義 上巻(一) 聖教文庫129㌻
【池田先生の講義から】
日蓮大聖人は、ここで、明らかに二つの立場から、阿闍世王について述べられている。第一に、謗法の人を指して阿闍世王なりと。「日本国の一切衆生は阿闍世王なり。既に諸仏の父を殺し、法華経の母を害するなり」とおおせのごとくである。第二に、信心ある者が阿闍世王なりと。「今日蓮等の類は阿闍世王なり。其の故は南無妙法蓮華経の剣を取って、貪愛・無明の父母を害して、教主釈尊の如く仏身を感得するなり」とおおせのとおりである。
(中略)
およそ、他人を怨む性格、性質は誰人にもある。否、現今ほど、日本の人が、世界の民衆が、互いにいがみあい、嫉妬と憎悪に満ちみちた時代はなかろう。国と国との、不信、相剋(そうこく)もその一つである。(中略)しからば、その根強い対立感情は、いずこよりきたのであろうか。原因には近因と遠因とが必ずある。事態の経過は、いかに説明しえても、人間生命の問題の解決なくしては、それらは、みな、近因を述べたものにほかならない。ありとあらゆる修羅、葛藤の根本原因は、人間生命に深く根ざしていることは、有智(うち)の人ならば、誰人も知るところであろう。
日蓮大聖人は、かかる、他人を怨み、人を害するという、人間が本来備えた生命の傾向をば、「阿闍世王」と名づけられたのである。
(中略)
およそ、怨むという根性に支配され、それによって行動し、不幸をもたらすことは、その人の生命力の弱さであり、目的観、境涯の低さによるものと思う。人間は感情の動物ともいわれている。たしかに人間である以上、怨みもするし、悲しみもする、また喜びもする。(中略)しかし、それらの感情に支配され、流されていけば、これもまた不幸なことだ。これらの感情を使いきっていくのでなくてはいけない。この感情をば、意のままに用いて、人生を楽しみきっていくことが理想であるといわねばばらぬ。

若き池田先生
(中略)
一口に怨むといっても、何を怨むかが問題だ。また怨むときのその人の心が問題である。日蓮大聖人を怨み、御本尊を怨むことは、悪の中の極悪となるのである。そのとき、怨む人の心は魔の心であり、正しい道理をすなおに聞けない、ゆがんだ、増長しきった心なのである。
しかし、真に民衆のことを思い、戦争を憎み、平和を願い、敢然と戦う姿は、真の阿闍世王の姿である。また謗法を憎み、相手の幸福を考え、折伏する姿は、これまた真の阿闍世王である。(中略)日蓮大聖人の大仏法によって、初めて人間革命ができ、境涯を開き、確固不動の目的観に立ち、仏界があたかも総司令部のごとくになり、いっさいの性格、いっさいの執着、いっさいの欲望、いっさいの煩悩や、苦しみ、怒り、嫉妬も、すべて変毒為薬し、用いていけるのである。
(中略)
総じて、現今のいっさいのいがみあい、修羅、葛藤も、大聖人の仏法が根底となったときに、自然に、全部が心を一つにした、よい意味での競争に変わり、おたがいに激励しあい、啓発しあう姿となり、主義主張の違いも、共通の立場を見いだし、人類発展の原因となることを信じてやまない。
但(ただ)し父母なりとも法華経不信の者ならば殺害すべきか
この「殺害」ということであるが、これは、いわゆる「殺す」という意味では決してない。(中略)すなわち、大聖人は、謗法の邪僧を断罪にするというのは、布施(ふせ=供養)をとどめることであるとおおせられているのである。つまり、人間を殺すのではなく、謗法行為を殺すのであり、また謗法の心を断ち切ることを意味するのである。
(中略)
よく、仏法のことを何も知らない者が、たまたま大聖人の「父母を殺す」等の文を見て、ほんとに殺害するのかと、とんでもない勘違いをするが、まことにもって笑うべきことである。いったい日蓮大聖人が、いつ親を殺そうとなされたか。日蓮大聖人御自身こそ、至孝の限りをつくされたではないか。また、孝の大事なることを、諸御書に示されているではないか。
【ひと言感想】
国家と国家、民族と民族、あらゆる社会階層において、人間どうしの「分断」が深刻化している昨今である。この分断と相剋をいかに克服・解決していくかを、上記の『御義口伝講義』で先生は明快に語られている。
分断の背景には、人間の人を怨むという心がある。そしてそこから、仏法の生命観に基づき、怨み・憎しみといった負の感情について解明されていく。怨み・憎しみといった感情は、無いほうが良いように思えるがそうではない。何を怨み・憎むかが重要であると、先生は教えられている。戦争を憎み、謗法を憎むことは、それら負の感情を最高度に善用した姿であると。
「一口に怨むといっても、何を怨むかが問題だ。また怨むときのその人の心が問題である。(中略)真に民衆のことを思い、戦争を憎み、平和を願い、敢然と戦う姿は、真の阿闍世王の姿である。また謗法を憎み、相手の幸福を考え、折伏する姿は、これまた真の阿闍世王である」
ここでいう阿闍世王とは、一切を変毒為薬し、人間革命した阿闍世王である。信心ある者の異名として阿闍世王が用いられている。
人間だれしも与えられた才能というものがある。才能といっても、何も学問や身体能力等だけではない。人間力や人格なども、最も根本的な才能だ。そうした才能も、さらにこの講義で学んだように、憎しみ・怒りといったあらゆる負の感情でさえも、どういう目的で使うかが大事といえる。
自身が持っている特性・能力を、広宣流布のために使っていきたい。最も自分らしく輝き生かしていくことができる、創価の仏法への大確信を燃やして。


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