青年よ波瀾の人生に舞え~学生部夏季講習会、より抜粋
邪悪と戦ってこそ正義
巴金氏(ぱきん・し=元中国作家協会主席)の人生には、多くの苦難があった。なかでも、もっともつらかったのは、あの文化大革命時代の十年であったと語っておられた。「文壇のボス」「黒い一味の黒幕」とされ、精神的拷問と卑劣な人身攻撃が続いた。叩かれ、また叩かれ、ののしられ、侮辱され、デマを流された。市民としての権利もなくなった。“いのち” である作品を発表する自由も奪われた。まったくの暗黒である。いったい、この世の「正義」は、どこにあるのか――。
やがて四人組が倒れる時がきた。氏は誓った。「私は、この魂の借りを決して、そのままにしておくことはできない」――受難の十年を総括しよう。悪人(四人組)にだまされてしまった歴史の収支決算をしよう。さもなくば、また悲劇を繰り返してしまうかもしれない。そうならないために、命ある限り、体験した「真実」を私は書き残そう。私は決してペンを捨てない、と。
氏の心情が、私には痛いほど伝わってくる。良きにつけ、悪しきにつけ、受けた「魂の借り」は、断じて返す――。忘れない。ごまかさない。決算をする。ここに人間としての真の面目(めんぼく)もある。
私は、「創価学会」に大恩」がある。私の魂に無上の恩恵を受けた。ゆえに私は、他のだれのためでもない、まじめで純真な学会員を守るために、ただそのために生きる。いかなる地位の人、権威の人よりも尊き、仏法の正道を行く方々である。たとえわが身は傷つこうとも、その方々を苦しめる者とは、私は断固、戦う。一歩も退かない。一生涯、その方々の盾となって生きぬき、死んでいく決心である。
巴金氏は、悪人によってきざまれた「魂の借り」は生涯忘れぬ、ペンで返す、と。この叫び、この執念、この根性、この闘争心――。悪への怒りを忘れるような、表面のみの “寛大な人格者” は偽善の徒である。悪と戦う勇気なき者に、正義を語る資格はない。もはや「青年」でもなければ、「人類の希望」でもない。悪との徹底闘争――そこに仏法の精神もあり、牧口先生、戸田先生が身をもって示された学会精神もある。
謗法の悪との日蓮大聖人の戦い。それは、言語に絶する激烈さであった。御書には、南岳大師の次の言葉が引かれている。
「若し菩薩ありて悪人を将護(しょうご)して治罰すること能(あた)わず、其れをして悪を長ぜしめ善人を悩乱し正法を敗壊(はいえ)せば此の人は実に菩薩に非ず、外には詐侮(さぶ)を現じ常に是の言を作さん、我は忍辱を行ずと、其の人命終して諸々の悪人と倶に地獄に堕ちなん」
(御書 全1374㌻)
――菩薩が、もしも悪人を助け守ってしまい、罰し、正すことができないで、悪を助長させ、善人の心を悩ませ乱し、正法を破壊してしまったなら、この人は真の菩薩ではない。こういう人間は、外面では “詐り(いつわり)” “侮り(あなどり)” から、つねにこう言うであろう。「私は忍辱の修行(侮辱や迫害等に耐えて瞋りの心を起こさない修行)をしているのだ」と。この人は、死後、もろもろの悪人とともに地獄に堕ちるであろう――。
この御文のごとく、「私は我慢しているのだ」などと言って、悪と戦わず、悪を増長させる者は、もはや「菩薩」ではない。広布の指導者ではない。かえって罪をつくってしまう。正義を貫くためには、意気地なしであってはならない。遠慮してもならない。
(中略)
悪と戦えば、戦った人が返り血を浴びる。それを恐れて沈黙すれば、何も起こらない。ゆえに、悪からの迫害を受けている人こそ本物である。真に「戦っている人」であり、実の「菩薩」であり、その人を正義の基準と見ていけば間違いない。
学会においても、何人かの悪人が出た。彼らが陰で、どれほど学会を利用してきたか。正法の和合僧を壊そうとしてきたか。彼らが私を攻撃するのは、私が彼らの悪を見破り、呵責したからである。いかなる犠牲をともなっても、悪人は外に出さねばならない。そうでなければ広宣流布の清流を濁してしまう。このことは、わが師より厳しく教えられたことである。
(1989年8月2日 『池田大作全集 第73巻』)
【ひと言感想】
よくよく噛み締めたいご指導である。次元は違うが、私も自分の人生において、若かりし頃、大きな「魂の借り」を受けた時のことを決して忘れない。
「私は、この魂の借りを決して、そのままにしておくことはできない」
私もこの負けじ魂があったからこそ、ここまで戦いぬいて来ることができた。それは決して、迫害を加えてきた人間たちを憎むことでも、単なる復讐や仕返しでもない。勇気と不惜で、創価の実践を貫き通し、私自身がこれ以上ない、幸福と勝利の実証を示しきっていくことだと確信している。
わが人生の終わりを迎えるまでに何としても、「魂の総決算」の決着を着けていく覚悟である。

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