先日、二十数年前に古本として購入した、2冊の書籍を再び手に取ってみた。記録によると、『科学と宗教』は23年前に、そして『政治と宗教』は20年前に、それぞれ一度だけ読了している。

2冊の書籍、『政治と宗教』『科学と宗教』

中表紙と表紙を並べた画像
その時の感想は、自分如きが生意気かもしれないが、それぞれの分野の学者でも専門家でもない池田先生が、非常によく勉強されていることに、まず驚きを隠せなかった。どちらの書籍も、昭和39年の発刊であるから、池田先生が36歳という、青年会長であられた時代の著作である。
科学、そして政治を、当時の最新の知見を踏まえ、急所を押さえつつ、大聖人の仏法からどう捉えるか、どう指導していくかが、縦横に語られていく。しかも、会長職という激務のなか、全同志への激励に、世界広布にと、奔走する中でのご執筆である。その内容は、現代の人が読んでも、いささかも古さが感じられない、エキサイティングこの上ない。
では、ほんの一部分であるが、抜粋させていただく。なお、『科学と宗教』については、稿を改めて紹介したい。
政治と宗教 池田大作著
政治の根底は宗教
宗教と人間の関係は、政治の面にも多大な影響をおよぼした。乱世といわれた時代には、かならず宗教が腐敗堕落しており、善政がしかれた国家、繫栄した民族の背景には、正しい宗教がいつもその指導原理となっていたのである。
(中略)
政治は人であるといわれている。いかなる政治機構も法律も、その運用は人であり、対象となるのもまた人である。ゆえに社会組織の変革が、そのまま社会の繁栄や、個人の幸福に直結するとはいえない。ここに、個人においても、真の宗教による人間革命が、その基底となって、それが社会のあらゆる階層におよんで、政治、教育、経済、文化等の革命にまで発展されなければならない。
さらに、政治の根本が宗教でなくてはならないとは、政治の根本が慈悲でなければならないということである。現代の政治家には慈悲がない。そこで彼等は何を根本として政治を行うか、党利党略であり、派閥のためであり、私利私欲である。それではよい政治の行なわれる道理がないのである。
(中略)
権力の政治から慈悲の政治へ
(中略)慈悲とは、抜苦与楽である。すなわち、悲とは「苦を抜く」ということであり、慈とは「楽を与える」ということである。仏法は個人個人の苦を抜き、楽を与えていくのに対し、政治は社会の福祉を根本にし、社会全体を慈悲をもって救済し、苦を抜き、楽を与えていかなければならないのである。
(中略)
現代の政治には、この慈悲が少しもみられない。保守政党は、絶対多数党の位置を確保し、保守永久政権の態勢を取ってきている。そして、権力を利用して、自分たちの利益を追求している。そこには慈悲や哲学や理想は一片もない。ただ名誉と、利権の獲得、温存に狂奔するさまを、どうして近代政治といいえようか。
日本の政治は、いまだに18世紀といわれ、戦国時代か、封建時代さながらの私闘に明け暮れているといわざるをえない。これをみて、野党たる革新諸政党は攻撃はするが、野党そのものが、なんの理想もなければ哲学もない。むしろ、派閥争いや、私怨私闘や、名誉や利権を求める姿は、与党も野党もなんの相違もない。
(中略)
日本の政界の腐敗堕落を嘆く者は多い。しかし、みずからその泥沼に飛び込んで、清浄化の革命に力を尽くした者はほとんどなく、ましてや、平和革命を成就した者もない。いま、日蓮大聖人の慈悲と生命哲学を根本にして、われわれが政界の革命、浄化に立ち上がるならば、かならず次にお示しのような、平和国家、文化国家の実現することを確信する。
如説修行抄にいわく「吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ、現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり」と。羲農の世とは、中国古代における理想国家であって、今日の理想国家とくらべたら、制度や組織には大きな時代的変遷があるかもしれない。しかし、民衆の幸福を根本とする理想には少しも変わりはないのである。


コメント
宗教は理想を追求し、政治は現実を直視して歪みを是正する。双方相和して、民の現在から未来への平和と安定と幸福を築いていくもの。というのが、私の考えです。
同じ幸福を目指すにしても、政治がとり得るのは相対的幸福であり、宗教が目指すものは絶対的幸福。相対的幸福と安定は、現実の積み重ねで、大多数の人々が日々の生活をより良い方向へ。絶対的幸福とは、誰人も漏らさず、崩れざる生きがいと充実感のある人生を送れること。
大聖人の御生涯は、まさに、時の権力に対して、正法を基にした真に民衆救済のための政治を行えという叫びを、弛まぬ諌暁として貫き通されました。
立正安国論の有名な一節。
『汝、すべからく一身の安堵を思わば、まず四表の静謐を禱るべきものか』。
(時の最高権力者である執権・北条時頼よ)あなたが、いかにしても自身が安寧であると願うのであれば、まずは、国全体が穏やかで静かな状況になることを祈っていくべきであろう。と。
大地震や大火事、日照りによる作物の不作や疫病が頻発蔓延し、餓死者や病死者が巷に溢れ、農作業に欠かせない牛馬や家畜まで死骸が道端に満ち満ちている。そういう惨状の中、何ら有効な対策も打てずに手を拱いている権力者層。そこにつけ込み、取り入る浄土宗系各派の高僧たち。結果、幕府も民も現実を打開する気力を失い、仕方がないから、苦しいばかりの現実世界(穢土)から離れ、せめて死後には、極楽浄土に行けるようにとの「諦め」と「現実逃避」の思想である弥陀念仏が浸透していく。
それでいいのか!?その念仏思想・宗教こそが鎌倉始め全国の民に塗炭の苦しみを味わい続けるしかない無気力な世相を創り出しているのではないのか!?それを何とか変革し、災難を静めて行かなければ、結局は、その策を施すべきあなた(北条時頼)自身の安寧など、とても望めないのではないか。
全民衆に平等な幸福を齎し、活気ある社会を創出するためには、その根本に根底に、正し法を説いた思想宗教を置くべきである。
さて、創価学会は、大聖人直結の団体です。
ならば、大聖人と同じように、深く政治に関わり、監視。諫言していかなければいけませんね。全民衆の幸福のために。
福島の壮年さん、お久しぶりです。当地では連日、蒸し暑い日が続いておりますが、そちらではいかがお過ごしでしたか。福島さんの仰せの通りです。御書には、仏法は勝負をさきとし、王法は賞罰を本とせりとありますね。言いかえれば、現実(政治等)は結局は「妥協」の世界ですが、これに対し仏法はどこまでも妥協は無い。正義が邪悪に勝つしかない。勝たなければ、あらゆる災難も止めることができない。
『汝、すべからく一身の安堵を思わば、まず四表の静謐を祈るべきものか』
現代は国民主権ですから、民衆1人1人が為政者とも言えましょう。北条時頼に宛てられた立正安国論は、そのまま今の日本の民衆1人1人に与えられた御書なのです。したがって、要は、民衆1人1人が賢明になるしかない。その場かぎりの、聴衆受けする言葉を並べているだけの、人間を選んでは大変なことになってしまう。優れた人格・識見、そして理念と慈悲を兼ね備えた人物を選ばねばなりません。
打ち続く自然災害、伝染病、飢饉により道端に死人が倒れ打ち捨てられている。その惨状を見ていながら手をこまねいている権力者。その権力者に取り入り安泰を図る邪宗教の高僧たち。福島の壮年さんが具体的に描写して頂いたように、学会員は大聖人のお心を帯し、深く政治に関わり、監視・諫言していかねばならない。全民衆の幸福のために。自己の使命への自覚を促すお言葉です。
「宗教の欠如した政治は、国家の首を吊るロープであります」
とはガンジーの言葉です。権力の奴隷になるのでもなく、政治との関係を断ち閉じこもるのでもない。宗教的精神によって政治を道徳的な慈愛あふれるものに変えよと言っているのであると、『法華経の智慧』で先生は仰っています。
都議選から参議院選へと、また一つの激戦が終わりました。大変にお疲れ様でございました。団地住まいですので、自分も炎暑の中、5階から4階、3階へと、何度も何度も、上ったり下りたりと大変でした。足腰の鍛錬にもなりました。
しばし英気を養いつつ、改めて自己の生活を大事にして、次の広布の戦いに備えたいと思います。メッセージありがとうございます。