「負けない」自分へと、鍛錬し抜いた人が勝つ -ブログ村の投稿に思うこと(5)

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●「三障四魔」仏法哲理の泉――折々の講義・指導から 大白蓮華2020年2月号p.103~

青年部は、絶対に苦労知らずの甘ったれであってはならない。戸田先生も、「苦労しない人間に、いったい何ができるか!」と、それはそれは厳しかった。「此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず」(御書1087㌻)と、「兄弟抄」に明確に説かれている。

殉教の師・牧口先生が常に拝されていた御聖訓である。魔という働きは、こちらの心が「弱ったな」「困ったな」と臆してしまえば、いくらでも増長して付け込んでくる。反対に、こちらが恐れずに、魔を魔と見破り、「さあ、かかって来い!」と勇敢に迎え撃てば、必ず退散するのだ。


 

●珠玉の励まし「師子王の生き方」 創価新報19-6-5

《1977年(昭和52年)先生は、県長に就任した35歳の青年に語りました》
皆、私が、会長就任後に、大切に育て上げてきた弟子だ。しかし、組織もできあがってから、幹部になってきた世代だけに、本当の苦労をしていない。周囲の人たちから、のけ者にされたり、蔑【さげす】まれながら、泥まみれになって折伏してきたという経験も乏しい。そのためか、広宣流布の開拓力に欠けているという弱点がある。スマートで頭のいい人が多いが、根本的なところで、信心への確信が弱い。また、本当の折伏精神が身についていないというのが、私の実感でもある。

だから、運営能力には長【た】けていても、大闘争となると、生命【いのち】が一歩引いてしまい、すぐに、腰が砕けてしまいがちだ。苦戦のなかで勝利をもぎ取ってくるには、捨て身になって戦う、必死の覚悟がなくてはならない。(中略)苦労して、苦労し抜くんだ。楽をしようなんて思ってはだめだ。保身、臆病、姑息、手抜き、インチキがあれば大成はできないよ。折伏や個人指導をはじめ、一つ一つの課題に、全力で真っ先に取り組み、自ら勝利の結果を示していくんだ。一人ひとりの同志に、誠実に、真剣に、体当たりでぶつかっていくんだ。それが師子王の生き方だよ。
(「福光」の章)

 

 

戸田先生と池田先生

 

 

●珠玉の励まし「師子王の生き方」 創価新報19-6-5

少々の非難や批判で退転するのは、まことの信心ではない。これほど、はかないことはない。戸田先生は厳しく言われた。「そんな連中は、学会にいてもらう必要はない。臆病者はじゃまになる!」と。そういう厳しさのなか、退転せずに信心を貫いた方たちが、今日の学会を築いたのである。絶対に退転だけはしてはならない。

大事なのは勇気である。意気地なしではいけない。意気地なしでは、妻に笑われ、子どもに笑われ、友人や世間からも笑われるであろう。「わが門下に意気地なしはいらない」――そう大聖人は仰せである。「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」(同1282㌻)等〉


 

●第90回本部幹部会での池田名誉会長のスピーチ 1995年6月

よく語り合った松下幸之助氏の言葉が、今でも耳朶から離れない。「池田先生、やっぱり、若い時の苦労は、買ってでもせな、あきまへんなぁ」と。今の時代は、皆、苦労から逃げようとしている。苦労することを、時代遅れのように思っている。また苦労するのが損のように勘違いしている。そうではない。苦労は全部、自分のためである。

甘えようと思えば、いくらでも甘えられる“鍛錬なき時代”である。こういう時代だからこそ、自分から求めて「苦労しよう」と自覚した人が得をする。何ものにも「負けない」自分へと、鍛錬し抜いた人が勝つ。その貴重なる「自己教育」の世界はどこにあるのか――。ここにある。創価学会にある。ここにこそ、人生を最高に勝利させる「道」がある。

 

 

【ひとこと感想】

自己を正当化するために、第六天の魔王まで持ち出すかと、驚きを禁じ得ない。何だかんだ言って、学会の方針どおりに「戦いたくないんでしょ」「楽をしたいんでしょ」ということが実態ではないのか。戦うも自由、戦わないのも自由である。それをなぜ、一生懸命に戦っている人々の足を引っ張るような言動を積み重ねるのか。

 

一見すると、いかにももっともらしいことを語っているように見える。しかしその実態は、「愚痴」から発した言動であり、「愚痴」が根本になってしまっていないか。御本尊に祈っていても、この法戦に大勝利しようとの祈りではなく、学会のあら探しをして「何かないか。何かないか」との祈りをしているのではないか。現に、戦いに乗りきれない人たちもいるのだと知っておくこと自体は、必要なことである。しかし、批判する者の本質を、信心の眼で見ぬいていくことが非常に重要である。

 

弱い自分を正当化しようと躍起になっても、結局、いつまでも弱い自分のままだ。信心とは、弱い自分を強い自分へと変革する実践である。学会の戦いは全て、御本尊を中心とした広布の戦いである。学会指導どおりに実践していった時、一つ一つの行動が、一つの無駄もなく福徳となり、何ものにも壊されない仏の生命へと自身を鍛え上げていくのだ。

 

思うように戦えない会員を本当に包容し尊重していきたいなら、学会に不満をぶつけるのでなく、自身が最前線で誰よりも戦いながら、同時に、戦いに参加できない会員をも温かく包み込んでいくのだ。自身が模範の戦いをしていくのだ。自分がやりもしないで、口先で批判するだけなら、信心の敗北ではないか。自分の使命の舞台で、一歩、二歩と前進して、理想の組織を現実に作っていくのだ。

 

どこまでも自身が「広宣流布の闘士」であるのかどうかである。そして、「学会の悩みを知っていこう」「学会と苦楽を共にしていこう」と祈り行動していくのだ。

 

 

 

 

 

 

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