「立正安国論講義」抜粋の続き
(中略)
【語訳から】
法身不可壊 絶対、究極の真理としての法をもって身体を荘厳した、なにものにも破壊されない仏身をいう。法華円教の法身は法・報・応の三身相即の法身であり、現在のわが身即妙法の当体となること。この境界は成仏の究竟であり、絶対に壊(やぶ)ることのできないものである。このゆえに「不可壊(ふかえ)」というのである。
【講義の続き】
濁世において正法を護持する方軌について、釈尊自身の過去世における有徳王としての実践を述べて明らかにされている。
(中略)
覚徳比丘とは正法を護り実践する者のことであり、「持戒の比丘」の持戒とは、末法の正法たる御本尊を護持していることである。「破戒の比丘」とは、御本尊を信ぜず、誹謗している、謗法の者である。そして「刀杖を執持(しゅうじ)し」というのは、現在では、権力と結託したり、マスコミを利用するなど、あらゆる力を用いて、陰に陽に、正法を弾圧せんとすることである。
有徳王とは、覚徳比丘を迫害から護りぬいた国王のことである。だが、国王といっても、権力的存在をいうのではなく、多くの眷属を率いて正法護持に戦う死身弘法の在家の指導者を意味するといえよう。正法護持の民衆を代表する広布実践の指導者こそ、有徳王の働きをなすものといえる。「有徳」という名は、死身弘法の功徳、福運の大きさをたたえたものと考えることができる。
「体に完(まった)き処は芥子(けし)のごときばかりも無し」とは、護法のため、正法流布のため、謗法の者から、あらゆる誹謗や、迫害を蒙(こうむ)ることである。その身が「当来の世に、この身・当(まさ)に無量の法器となるべし」と覚徳比丘が讃えたのは、正法護持のために受けた傷がそのまま偉大な福運となるからである。
もし正法尽きんと欲することあらん時、応当(まさ)にかくのごとく受持し擁護(おうご)すべし
立正安国論自体、法然の念仏などの仏教破壊の諸宗が一国にはびこり、法華経の正法が滅し去ろうとしている危機を目にされ、ただ一人、正法を受持する法華経の行者としての御自覚から著された書である。したがって、日蓮大聖人御自身が覚徳比丘の立場であられ、この書をもって北条時頼を諫暁された大聖人のお心にあったのは、時頼こそ、有徳王であってもらいたい、その自覚と仏法上の名誉ある位置に立たせたいとの思いであったと考えられる。
「かくのごとく受持し」とは、覚徳比丘のように受持するということであり、「かくのごとく擁護(おうご)すべし」とは、有徳王のように正法および正法の受持者を擁護すべきであるということである。もし、時頼が大聖人の言葉に納得し、謗法の帰依をやめ正法に帰命していたならば、有徳王の役割を果たしたといえる。しかし、時頼は大聖人の諫言を用いようとはしなかったのである。
※現在の創価学会の公式見解に基づいて、ご指導の文言を微修正している箇所がいくつかあります。

難と戦ってこそ、仏の「金剛身」となる
聖教新聞の記事から
●VOD新番組に収録された池田先生の指針 2025-1-27付
悪と戦う功徳
仏の身は「金剛身」と説かれる。いわばダイヤモンドのごとく強い生命。何があろうと壊れない福徳。燦然と光る人格。そういう自分自身になるには、どうすればよいのか――これが日蓮大聖人の御書の一貫したテーマである。その結論は「徹底して悪を責めよ!」ということである。すなわち折伏である。戦いである。法戦である。「悪を責めれば、自分が金剛身になる。仏になる」。これが仏法の要諦である。釈尊もそう教え、日蓮大聖人も自らそう実践された。「開目抄」には、こう書かれている。
「(釈尊は弟子の迦葉に次のように言った)迦葉よ、私は悪人の迫害のなか正法を護持しきった因縁によって、今、この常住にして永遠に壊れない金剛身をつくり上げることができたのである。(中略)(仏法を破る悪人がいるときに、彼らを打ち破るための)師子吼をできず、正法を踏みにじる悪人を降し伏(くだし・ふく)させることができない。このような僧(仏弟子)は、自分にも功徳はないし、衆生に功徳を与えることもできない」(全235・新119、通解)
この原理を、大聖人は繰り返し繰り返し説かれた。御書全編を貫く指導がここにある。大聖人は仰せである。(中略)謗法を責めてこそ、功徳がある。仏になる。金剛身になれる。この御金言どおりを貫いたところに、創価学会の偉大さがある。
最後の勝利者に
仏法は厳しい。いかに表面を飾ろうとも、妙法だけは、だますことはできない。法華経に「此経難持(此の経は持ち難し)」(法華経393㌻)とある。この経を持つ人には必ず難がある。難と戦わなければ仏にはなれない。「金剛身」にならなければ損である。これ以上の絶対の幸福はない。何があっても、ダイヤモンドのように光る。何があっても楽しい。毅然たる姿である。一人も残らず、そうなっていただきたい。そのための仏道修行であり、信心であり、戦いなのである。
●ストーリーズ2~第9回 病魔を打ち破る大確信から 2025-2-2付
(東北の中心幹部に、池田先生から届いた原稿用紙3枚に渡る手紙には認められていた)
「指導者というものは、大勢の人びとの依怙依託であり、柱でもあるが故に、あらゆる方途を講じながら、健康の姿にいつもいつも満ち満ちていなければならない。(中略)ただひたすらに、広宣流布のために頑健金剛の身体生命にさせ給えとの強く深い祈りが根本であることを忘れまい」
【ひと言感想】
「悪を責めれば、自分が金剛身になる。仏になる」と先生は仰せです。例え満身創痍になったとしても、生命を懸けて創価学会の仏法を護れば、必ず「仏の金剛身」が果報として得られます。それは何者によっても決して壊されない、ダイヤモンドのように堅固な福徳であり生命力です。
次元が違い、身近な例で恐縮ですが、自分も20歳代前半の頃、最初の就職先で、同僚から理不尽な迫害を受けました。ちょうどその会社とは無関係の元・同級生に御本尊流布を決めた頃でした。創価の信仰をしているという一点だけで、様々に嫌がらせや批判を受けました。本来、生命の次元から言えば、この世で最も尊い弘経をしたことに、国をあげて表彰されて然(しか)るべき所を、現実は障魔と迫害の嵐でした。
メンタルに傷を負った私は、通常であれば経験しないような苦労を経験しました。谷底に突き落とされたような試練でした。ただひと筋に御本尊に祈りきり、先生と同志の励ましのお陰で、乗り越えてくることができました。この難との戦いを通して、御書を多少なりとも深く拝せる自分になれました。そして40年以上に渡って積み重ねてきた唱題行と学会活動によって、様々に功徳を頂いてきました。
何よりも、自分らしく「金剛身」というものを鍛えてくることができたと思います。学会員として真剣に戦う人は、1人の例外もなく仏の「金剛身」を得ることができるのです。学会と池田先生に深い感謝の念を強くします。まだ人間革命の途上ですから、生きている限り何らかの苦労・試練は続きます。「どんな困難にも負けない不屈の闘魂」「何が来ようが勝利してみせる!」と学会魂を燃えたぎらせ立ち向かっていきます。
青春の
王冠おくらむ
偉大なる
創価の大城
守りし王子に(23歳で初めての本流をした時に、先生より頂いた和歌)
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