新・人間革命 第18巻、師子吼の章から
また、仲間同士で集まって酒を飲んでは、先輩幹部の批判ばかりしている、二、三人の(聖教新聞の)記者がいた。彼らは大物ぶっていたが、付和雷同的な傾向があり、自分を見つめる姿勢にかけていた。ゲーテは断言する。「君がだれと付き合っているか言いたまえ。そうすれば、きみがどのような人間であるかを言ってあげよう」
(中略)
大事な職員である。伸一は、彼らが大成するために、誤りに気づいて欲しかった。職員の会合の折、伸一は彼らを次々と指名し、「みんなが感銘するような指導をしなさい」と言った。彼らは、しどろもどろになり、何の実(み)のある話はできなかった。伸一は厳しい口調で語った。
「批判は簡単だ。では自分は何ができるのだ。真剣に自分を磨くことを忘れてはいけない。不平不満は、自分を惨めにするだけだよ」
(中略)
なかには、伸一が真心を尽くして、指導、激励を重ねても、学会を見下し、広宣流布を忘れ、批判を繰り返す者もいた。しかし、やがて彼らは、誰からも相手にされなくなり、皆、自分から職員を辞めていった。清らかな信仰の世界では、悪心の者は、その醜悪なる正体が明らかになり、出ていかざるをえないのである。
法華経の智慧 普及版 下巻 p.17(分別功徳品(第17章))
「怒りを抑えよ」と説かず、悪に対しては激怒して戦えというのが法華経です。御義口伝には「三毒の煩悩を此の品(=分別功徳品)の時 其の儘(そのまま)妙法の功徳なりと分別するなり」(全799㌻・新1114㌻)と仰せです。
「貪・瞋・癡の三毒を捨てよ」というのでは偽善者をつくってしまう。また末法の巨大な悪にとって、こんな都合のいい民衆はない。おとなしく、無力に、翻弄されるだけの民衆であってはならない。大いに怒(いか)れ、大いに情熱を燃やしていけ、妙法を根本とすれば、すべてが価値創造のエネルギーに変わるのだ。これが法華経の哲学です。
東京総区長会 2001-1-30(池田大作全集第92巻)
戸田先生は、かつて、おっしゃった。「なすべき時に、なすべきことを、率先して、着々と、勇敢に、実践するのが、広布の途でなければならない。臆病者は去れ、と私は言いたい!」と。
きょう1月30日は「ガンジーの殉難の日」である。一生涯、理想のインドを見つめて戦ったガンジーは言う。「臆病と逃口上(にげこうじょう)の余地はない」(エルベール編『ガーンディー聖書』蒲穆訳、岩波文庫)、「私はいったん決意した以上、それをやすやすと放棄するような人間ではない」(E・H・エリクソン『ガンディーの真理』1、星野美賀子訳、みすず書房) 「大胆に自己の意思を決定発表し、良心の命ずるところに従い、断乎として実行出来ない人は勇者とはいえない」(蒲穆訳、前掲書) 皆さまも、歴史に輝く「行動第一の勇者」であっていただきたい。
(中略)
広布へ勇猛精進する人の題目は、たとえ一遍であっても、何の目的もなく、何の行動もない千遍、万遍の題目よりも、はるかに功徳があり、はるかに力がある。大事なのは「広宣流布の信心」である。
寸鉄 20-7-20
学会と生きてごらん。悩みは全部功徳に変わる――恩師。不退の信心を貫け。
【ひと言感想】
どんな小さなことでもいい。広布の責任を必死に、果たしていくことだ。批判するということ自体が、その責任を放棄した姿であるからだ。独りよがりの使命感に酔うことは厳に戒めたい。建設的な意見とは、人一倍悩み戦っている人のみが提起できるのだ。
もし、組織を変えようとするなら、その前に、自身を変えなければ、現実には何も変えることはできない。意見を言うことが必要な時もあろう。下から上を変えていくべき時もあろう。結局、「依正不二」の原理からも、自身が人間革命した分だけ、環境が良く変わっていくのである。例え、脚光を浴びなくても、愚直なまでに、己が広布の責任を果たしゆく人でありたい。
心ある人は見ていてくれるものである。誰が見ていなくとも、御本尊様は、また池田先生がお見逃しになるはずがない。例え、今は不遇であったとしても、学会指導通りに勇気ある実践を貫けば、正邪・勝負が明確になる時が、必ず来るのである。その強い確信と、希望を忘れてはならない。

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