金剛身を得る功徳 ー10時間唱題 (37)(38)

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地元地域で若者が主役のユースフェスタを行ない、内外、大結集の喜びあふれる集いとなりました。自分も友人1名の参加を勝ちとり、他にも徹して内外を周ることができ、いつもは玄関先の対話だった別の外部の方が、今回は家に上げさせてくださり、一歩前進の対話ができました。

 

こうした戦いの進展の中で、仕事にも動きがありその収入で、7月の法戦に向けて(交流の実現への)大きな布石を打つこともできました。これらの土台としては、やはり10時間の完遂があると思います。2月7日と2月21日の2回を、さらに10時間あげることができたのです。

 

 

この2回は、終盤において激しい睡魔との戦いでした。諸事情により、開始時刻が遅れたこともあります。結局、未明の3時頃にやりきることができました。今回もあらゆることを祈念することができ、最後やりきった時には、何とも言えない満足感と達成感に包まれました。では、今回は「立正安国論」から、有徳王と覚徳比丘について学んでいきましょう。

 

 

有徳王と覚徳比丘

また云わく「仏言わく『迦葉よ。能く正法を護持する因縁をもっての故に、この金剛身を成就することを得たり。(中略)』と」。

 

(中略)
また云わく「善男子よ。過去の世にこの拘尸那城(くしなじょう)において仏の世に出でたもうことありき。歓喜増益如来と号したてまつる。仏・涅槃して後、正法世に住すること無量億歳なり。余の四十年、仏法いまだ滅せず。その時、一人の持戒の比丘有り、名づけて覚徳(かくとく)と曰(い)う。その時、多く破戒の比丘有り。この説を作(な)すを聞いて皆・悪心を生じ、刀杖を執持(しゅうじ)し、この法師を逼(せ)む。

 

この時の国王は、名づけて有徳(うとく)と曰(い)う。このことを聞き已(お)わって、護法のための故に即便(すなわ)ち説法者の所に往至(おうし)して、この破戒の諸の悪比丘と極めて共に戦闘す。その時、説法者は厄害を免るることを得たり。王、その時において身に刀剣箭槊(とうけんせんさく)の瘡(きず)を被(こうむ)り、体に完(まった)き処は芥子(けし)のごときばかりも無し。

 

その時、覚徳はついで王を讃めて言わく『善きかな、善きかな。王、今・真(まこと)にこれ正法を護る者なり。当来の世に、この身・当(まさ)に無量の法器となるべし』。王、この時において法を聞くことを得已(えお)わって、心・大いに歓喜し、ついで即(すなわ)ち命終して阿閦仏(あしゅくぶつ)の国に生じて、彼の仏のために第一の弟子と作(な)る。

 

その王の将従(しょうじゅう)・人民・眷属、戦闘有りし者、歓喜有りし者は、一切、菩提の心を退せず、命終してことごとく阿閦仏の国に生ず。覚徳比丘、却って後、寿終(いのち・お)わってまた阿閦仏の国に往生することを得て、彼の仏のために声聞衆の中の第二の弟子と作る。もし正法尽きんと欲することあらん時、応当(まさ)にかくのごとく受持し擁護(おうご)すべし。

 

迦葉よ。その時の王とは則(すなわ)ち我が身これなり。説法の比丘は迦葉仏これなり。迦葉よ。正法を護る者は、かくのごとき等の無量の果報を得ん。この因縁をもって、我、今日において種々の相を得て、もって自ら荘厳し、法身不可壊(ほっしん・ふかえ)の身を成(じょう)ず。仏、迦葉菩薩に告げたまわく、この故に、法を護らん優婆塞等(うばそく・とう)は、応(まさ)に刀杖(とうじょう)を執持して擁護(おうご)すること、かくのごとくなるべし。

 

善男子よ。我・涅槃して後の濁悪の世に、国土荒乱し、たがいに抄掠(しょうりゃく)し、人民飢餓せん。その時、多く飢餓のための故に発心・出家するもの有らん。かくのごときの人を名づけて禿人(とくにん)となす。この禿人の輩、正法を護持するものを見て、駆逐して出ださしめ、もしは殺し、もしは害せん。この故に、我は今、持戒の人、諸の白衣の刀杖を持する者に依って、もって伴侶となすことを聴(ゆる)す。刀杖を持すといえども、我はこれらを説いて名づけて持戒と曰(い)わん。刀杖を持すといえども、応(まさ)に命を断ずべからず」。

(立正安国論 新版39㌻から)

 

 

「立正安国論講義」 池田大作全集第26巻から

【語訳から】
(池田大作全集第26巻、205㌻)
金剛身 金剛とはダイヤモンドのことで、壊れないもの、壊すことのできないものを譬える。仏の境界は、いかなるものにもこれを壊すことができないので、仏身を金剛身(こんごうしん)という。また、仏の持(たも)つ戒すなわち三大秘法を受持することを金剛宝器戒というのも、同じ意である。(中略)。

 

【講義から】
(同書216㌻)
しょせん、現代は、法治主義の時代であり、民主主義の時代である。広宣流布の時を迎えて、競い起こる三障四魔、三類の強敵も、個人的な怨嫉から一族郎党を率いて襲いかかってくるような規模ではない。むしろ、政治権力、言論界等と結んで、より多角的に、批判、中傷し、迫害してくる時代といえる。

 

このときにあたって、正法護持のために、取って立つべき「刀剣、弓箭(きゅうせん)」とは、正義の言論の力であり、民衆を納得させうる実証であるといえよう。なぜなら、それこそ正法を護る最大の力だからである。具体的には、職場においても、家庭にあっても、それぞれの地域においても、信頼と尊敬の人間関係を築き上げていくことであり、それ自体が広宣流布の縮図なのである。

 

そうした民衆次元から盛り上がった生命連帯の輪こそ、武力も権力も用いずに、魔と邪悪を孤立させ、打ち破っていく力になるのである。これこそ、時代に即応した、最も正しい仏法守護の実践であることを知らなければならない。(続く)

※現在の学会の公式見解に基づいて、ご指導の文言を微修正している箇所がいくつかあります。 

 

 

厳寒の冬を越え、希望の春が間近に

 

 

 

 

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