「凡夫こそ本仏」の大宣言 ー10時間唱題(44)

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一昨日の自身61歳の誕生日前日に7時間、翌日3時間と、二日がかりで10時間唱題を完遂しました。合計44回目です。今回も自身の課題・目標から、世界の平和・幸福まで、深々(しんしん)と祈ることができました。ここで、先生の講義を抜粋します。最近、『法華経の智慧』を読み直していて、神力品が終わった所です。

 

10時間唱題表。44回目。

 

 

 

普及版『法華経の智慧』(下巻)から

【147㌻】

「忍辱の心」で戦う人が「仏」

池田先生 娑婆世界――一番苦しんでいる人のところへ行くのが「仏」です。皆と苦しみをともにしていくのが本当の「仏」なのです。それ以外にはありません。坊主が偉いのか。断じて、そうではない。政治家が有名人が偉いのか。断じて、そうではない。役職が高い人が偉いのか。絶対に、そうではない。一番苦しんでいる人のもとへ走る人が、一番偉いのです。

 

ご主人に信心を反対され、いじわるされ、皆に悪口を言われ、それでも耐えに耐えて、皆の幸福を祈って広布へ動いている――そういう最前線の婦人部の方が偉いのです。「仏」とは、その方の「忍辱の心」のことなのです。


 

 

(中略)【150㌻】

「凡夫こそ本仏」の大宣言

池田 「凡夫でしかない」――そういう言い方は、とんでもない間違いです。そういう錯覚の黒雲を、大いなる涼風で吹き払ったのが法華経です。「凡夫でしかない」どころか「凡夫こそが仏なのだ」と、「人間こそが最高に尊貴なのだ」と。この「法華経の心」を究極まで表現されたのが日蓮大聖人の次のお言葉です。

 

「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用(ゆう)の三身にして迹仏(しゃくぶつ)なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備え給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり」(全1358㌻・新1789㌻)

 

「本仏と云うは凡夫なり迹仏(しゃくぶつ)と云うは仏なり」(全1359㌻・新同㌻)

 

まさに「それまでの仏法がひっくり返ってしまった」お言葉です。凡夫が「本仏」、仏はその ”影(かげ)” である「迹仏」にすぎないと言われるのだから。”仏があって凡夫がある” と思っていたら、そうではなく、”凡夫があって仏がある” のだと。

 

仏法だけでなく、全宗教史上、驚天動地の宣言です。どんな宗教でも、神仏などの「絶対なる存在」が上、人間はその下と考えるのが通例です。それを否定して、絶対者と思われている神仏は、じつは凡夫=人間の「影」であり、「用(ゆう=働き)」であり、「人間のための手段」にすぎない――こんな宣言は他にありません。

 

まさに「人間のための宗教」の大宣言なのです。歴史上、「人間のため」のはずの宗教が、いつのまにか「権威のため」の宗教に変貌(へんぼう)してきた。その思想的な根っこは「神仏が上、人間が下」としたところにある。そう言えるのではないだろうか。

 

須田副教学部長 聖職者が、「普通の人間よりも上」とされてしまう構造も、そこから生まれると思います。神仏が人間よりも「上」にいるから、神仏の「そば」にいるはずの聖職者は、一般の信徒より「上」にいるように錯覚してしまう。


 

 

(中略)【189㌻】

神力品は「民衆勝利の大行進」の序曲

斉藤教学部長 ありのままの「凡夫」「人間」以外に「仏」はないのだという徹底したヒューマニズムですね。

 

池田 ある人が言っていた。「本来、患者のために医者がいる。患者に尽くしてこそ医者である。なのに医者は自分のほうが偉いと思って、威張っている。困っている人のために弁護士がいる。なのに弁護士は自分が偉いように思って、威張っている。

 

国民のために政治家がいる。公僕(こうぼく=民衆に仕える人)である。なのに政治家は国民を利用し、国民より自分が偉いと思って、威張っている。ジャーナリストは、民衆の人権を守るためにいるはずである。なのに、マスコミが先頭に立って人権侵害をしている。信徒のために聖職者がいる。なのに聖職者は自分のほうが偉いと思って、威張っている」と。

 

須田 その通りだと思います。

遠藤副教学部長 転倒ですね。

池田 転倒です。これをひっくり返すのが、人間主義の「革命」です。

斉藤 「革命(レボリューション)」は、もともと「ひっくり返す」という意味です。

 

「凡夫こそ本仏」の大宣言

 

 

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