新しい人物が、ブログ村・創価学会カテゴリに、毎日投稿している。しばらく様子を見ていたが、どういう人物なのか、記事の文章以外には、一切記されていない。この人物に怜悧(れいり)さしか感じないのはなぜだろうか。
素直に一生懸命に学会活動している人には、その文章一つとってみても、人間として温かさを感じるものである。生命を磨いているゆえの、虚飾ではない、人格の輝きを感じさせるものである。
ところがこの人物は、すでに数十の記事を公開しているが、そのほぼ全てが組織と幹部の批判である。本人は批判ではないと前置きしているのだが。現場を知悉(ちしつ)しているかのような訳知り顔で、あたかも、多くの会員が感じているという問題なるものを代弁しているとの形を取りながら、批判を連ねているのだ。
組織や幹部に問題があるとの指摘を連ねる前に、自身が現在どこまで素直に実践しているのかの記述が全く無いのだ。自分がどう真剣に仏法を実践し、どれだけの功徳を受けたのか。その広布の戦いも、実証の体験も全く欠落しているのだ。
一つ一つの論難も、いつ・どこで・誰が、の具体的情報が一つも無く、「皆さん何となく感じませんか」程度の論点の上に、自身の考えを積み重ねる形式である。
もしかすると私の勇み足かもしれないが(もう少し様子を見たい気持ちもある)、この人物の言説を鵜呑みにしては危険と感じるのである。昨今は「足軽会」といった学会を除名された輩も出ており、いつ出没してもおかしくないのだ。元をただせば、人事への不満から、学会執行部を逆恨みしたのが発端という。
日蓮大聖人は、悪知識について、御書に次のように御指南されている。
悪知識と申すは、甘くかたらい、詐(いつわ)り媚び、言を巧みにして、愚癡の人の心を取って善心を破るということなり。
総じて、涅槃経の心は、十悪五逆の者よりも謗法・闡提のものをおそるべしと誡めたり。
(唱法華題目抄 新版p.10)
愚痴の心で共感することは、悪知識の思う壺となってしまう。組織撹乱の魔の謀略に付け込まれてはならない。どこまでも「信心」の眼で見ていくべきであり、異体同心の団結で進んでいくのだ。

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