末法は愚痴の衆生ゆえに「聞く」ことが修行

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法華経の智慧 普及版 下巻 p.370~(観世音菩薩普門品(第25章))

「普く(あまね・く)」開かれた「門」に入れ

斉藤 観音品は、正式には「観世音菩薩普門品」。「普門」とは「普く」開かれた「門」です。だれでも入れる。だれでも受け入れてくれる。狭き門ではない。広々と開かれた門です。

 

池田 一切衆生だれでも、悩んでいる人がいれば、その悩みの「世音(せおん)」を「観」じるのが観世音です。指導者は、人の話をよく聞かなければならない。とくに男性は、女性の話を丁寧に聞かねばならない。「そうですか、そうですか」「よかったですね」「すばらしいですね」と謙虚に聞かなければ幹部失格、男性失格です。聞かないとか、「うるさい!」じゃ、だめなんだ。なかには、話しだしたら止まらない女性もいるけれども。(笑い)

 

遠藤 女性にかぎらず、男性の話でも、グチとしか思えないこともありますが……。

 

池田 末法は「愚痴の衆生」です。聞いてあげるしかない。「聞く」ことが修行です。また皆が何でも言いやすいような「雰囲気」をつくることも大事だ。”鬼も近づかない” ような恐(こわ)い雰囲気では、どうしようもない。

 

須田 政治家でも経営者でも、優れたリーダーは、人の意見に耳をかたむけていますね。

 

池田 日本で言えば、松下幸之助さんを思い出す。「自分は学問がないから」と言われて――じつは、たいへんな博学な人だったのだが――よく人の意見を聞かれた。それも現場で苦労している人の意見に耳をかたむけたことで有名です。

 

須田 たとえば新製品を発売して「不評だ」と知ると、直接に工場に出向いて原因を技術陣とともに検討した。品質に問題がないとなると販売店に出向き、さらに消費者にまで会って、原因を自ら追究したということです。

 

人から「あなたの地位で、なぜ直接出かけるのか。担当の技術者なり、販売責任者を呼べばよいのに」と言われると、私が担当の部下を呼んだら、部下はおそれおののいて、私のまえに現れるまでに解答を考えてくる。ときには、私のご機嫌とりのために、あえて粉飾された報告をするかもしれない。私のほうには予備知識がないから、部下の解答をうのみにする以外にない。私はそれをおそれる。だから、自分のほうから出かけるのだ」と。

 

斉藤 さすがですね。人の意見でも、都合のいい話は聞きやすいですが、いわゆるマイナスの意見を聞くことはむずかしい。自分にとって苦(にが)い意見は遠ざけがちです。

 

「マイナス情報」を聞く

池田 「マイナス情報」を喜んで聞けるかどうかが、指導者か独裁者かの分かれ目ではないだろうか。独裁者というのは、威張っているが、じつは気が小さい場合が多い。だから人の意見が聞けない。

 

遠藤 「マイナス情報」に耳を貸さずに失敗した例は歴史上、数えきれません。

 

(中略)
池田 もちろん、意見のなかには、見当はずれのものも多いかもしれない。しかし、この人がこういう考えを持っているという事実自体が、貴重な判断の要素となる。たとえ厳しい意見でも、喜んで聞いていく度量がなければ、指導者失格であるということを確認しておきたい。

 

(中略)
「聞く」「語る」ことで健康に

池田 悩んでいる人は「聞いてもらう」だけで、ぐっと心が軽くなるものです。自分の話を親身になって「聞いてくれる」。そのこと自体が、生きる励ましになっていく。精神医学の統計でも、そういう結果が出ている。ストレスや、愛する人の死、その他の出来事で、心に深い傷を受けた人も、だれかそれを打ち明ける人がいた場合には、健康に生きられる率がきわめて高いという。反対に、自分の苦しみについて、だれにも言えなかった人は、頭痛とか内臓疾患とか、さまざまな病気にかかる率がきわめて高くなる。

 

ハーバード大学の心理学者(デビッド・マクレイランド氏)は、「最も深い感情を自分自身の心の中にしまっておく性向のある人は、”危機” に直面した際に、免疫系統の力を弱めるホルモンを放出する」ことを明らかにしたという。またヘブライ大学の精神科医(ジェラルド・カプラン氏)は、「強いストレスに対して心理的なサポートのない人たちは、サポートに恵まれた人たちに比べて、身体や心の病気にかかる率が10倍も高い」と結論しているそうだ。

 

遠藤 「人々のつながり」こそが、文字通り、「生命線」だということですね。

 

須田 それも「直接会う」ことが大事だと思います。ある調査では、”インターネットの利用時間が長くなればなるほど、憂鬱になったり、孤独感を覚えがちになる” という結果が出たそうです。

 

(中略)
池田 やはり、人間は人間に直接、会わなければ、生命の触発はない、ということだね。

 

斉藤 学会の組織が、どれほどありがたいところか――。

 

池田 「孤独」になってはいけない。人を「孤独」にしてもいけない。悩みに寄りそって、その苦しい「心音」に耳をかたむけてあげなければ、そうすることによって、じつは自分自身が癒されていくのです。人を受け入れ、励ますことによって、自分の心が励まされ、開かれていくのです。

 

 

池田先生と未来部

 

 


 

【感 想】

「末法は『愚痴の衆生』です。聞いてあげるしかない。『聞く』ことが修行です。また皆が何でも言いやすいような『雰囲気』をつくることも大事だ」 「『マイナス情報』を喜んで聞けるかどうかが、指導者か独裁者かの分かれ目ではないだろうか。」とあった。

 

相性がわるいのか、聞き方がわるいのか、長く関わっているのに、話を聞いても心のうちをほとんど話さない人がいる。一方で、少し話を聞くと、メール・電話・対面で、長期にわたって何百回以上の話や相談をよこす人もいる。反応が淡白な場合も気になるが、逆に、反応が密過ぎる場合も、過度な「依存」にとことん疲弊してしまう。そういう人は、周りに聞いてくれる人が全くいないのか、あるいは、他人との距離感が適切に保てない、不器用な人なのかもしれない。

 

学会指導に「愚痴は福運を消す」とあるように、愚癡は言うべきことではない。愚痴を言っても解決は得られないからだ。しかし、100のうち1%位の愚癡も、時と場合により許してはならないのだろうか。人間だれしも「本音」と「建て前」というものがある。いかなる宗教や組織であろうと、「建て前」だけを重視する余り、眼前の人間の「本音」、すなわち心の「奥底の思い」に寄りそい、切り込んで行けなければ、形だけを取りつくろっているに過ぎないと言えまいか。

 

人はある時は信頼する誰かに愚痴を聞いてもらい、ある時は人の愚癡の「聞き役」に徹する側になる。それこそが健全な姿であろう。そして問題の解決には、勇気ある広布の実践しかないことを訴え、決意し合うことが大事だ。あたかも、樹木を育てるような、時間と世話と忍耐が必要だと思う。

 

また、経営学や指導者論として、「上の立場に立てばたつほど、直言してくれる人を身近に置くべき」とはよく言われることである。どうしても立場が上になるほど、多くのお追従(おついしょう)を言ってくる者に囲まれやすくなるのではないか。そうなると、どうしても正しい判断が困難になる。耳障りのわるいことを敢えて直言する者、己を捨てて言うべきことを言ってくれる者を、指導者は遠ざけてはならないのである。「指導者であるか独裁者であるかの分かれ目」と先生が仰っている通りである。

 

若い頃に読んだ吉川英治氏の小説『新書太閤記』か『私本太平記』だったと思うが、ある武将が常日頃、上の者に直言を繰り返し疎(うと)まれていた。しかし、戦(いくさ)が起きいざ主君の命が危うくなった時に、いつもは「殿のため」と言っていた重役たちが、真っ先にわが身可愛さで寝返ったり逃走してしまった。その土壇場で矢面に立ち、命を賭して主君を護ったのが、あのふだん遠ざけられていた武将だったのである。

 

いざという時に学会を護れる人に、広宣流布のために貢献できる人でありたい。改めて何もない時こそ鍛錬の時と決めて、雄々しく進んでいこう。

 

 

 

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