
『核抑止論の虚構』表紙カバー
『「核抑止論」の虚構』豊下楢彦著、集英社新書
同書の「はじめに」より抜粋
それが「核抑止論」である。そもそも「抑止」とは英語のdeterrenceの訳でラテン語のdeterrere(脅かして思い止まらせる)が語源であり、相手側に脅しをかけることで敵対的な行動を取らせないことを意味する。具体的には、相手側が核攻撃をしかけてくる場合に、より破壊的な報復核攻撃を加えるという脅しをかけることによって攻撃を抑える、という構図である。(中略)1950年代の米国では、相手社会を壊滅させる核の「大量報復」に打って出るという瀬戸際戦略が公然と採用された。さらに米ソ両国は、地球を何度も破壊できるとする核戦力の増強を互いに誇示し合った。なぜ事態は、このようにエスカレートの一途を辿ったのであろうか。
それは、「チェス盤なきチェス・ゲーム」と称されるように、核抑止論には依拠すべき「土台」が欠落しているからである。そもそも人類社会は、核保有国同士が核を撃ち合うという「核の応酬」など一度たりとも経験したことがない。だからこそ完全に ”実証性” を欠いており、それ故にこそ、”机上” において核戦争に打ち勝つことを想定した数々の核戦略論が生み出されていった。
(中略)
ただ、ここで改めて確認すべきは、そもそも「狂気」の問題は核抑止論そのものに孕まれている、ということである。なぜなら、広島・長崎を焼き尽くし「ホロコースト」をもたらした核兵器を抑止力と位置づけたところに核抑止論の本質があり、必然的に「狂気」を孕まざるを得ないのだ。
(中略)
彼が直面したのは、ソ連の軍産複合体が「国を食いつぶす」という現実であった。この軍産複合体が生き残る絶対条件はたえず「敵」を設定し続けることであり、「敵」の脅威を煽り立てるところに軍産複合体の〝存在証明〟があった。(中略)ここで明確なことは、伝統的な核抑止論は全面核戦争の危機を突破する論理を提起することができなかった、ということである。なぜなら伝統的な抑止論は、寝ても覚めても「抑止力の強化」を叫ぶことしか能がないからだ。
「原水爆禁止宣言」の抜粋 ~第二代会長・戸田城聖先生のスピーチより
いやしくも、私の弟子であるならば、私のきょうの声明を継いで、全世界にこの意味を浸透させてもらいたいと思うのであります。それは、核あるいは原子爆弾の実験禁止運動が、今、世界に起こっているが、私は、その奥に隠されているところの爪をもぎ取りたいと思う。
それは、もし原水爆を、いずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきであるということを主張するものであります。なぜかならば、われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります。
それを、この人間社会、たとえ一国が原子爆弾を使って勝ったとしても、勝者でも、それを使用したものは、ことごとく死刑にされねばならんということを、私は主張するものであります。たとえ、ある国が原子爆弾を用いて世界を征服しようとも、その民族、それを使用したものは悪魔であり、魔ものであるという思想を全世界に弘めることこそ、全日本青年男女の使命であると信ずるものであります。
願わくは、今日の体育大会における意気をもって、この私の第一回の声明を全世界に広めてもらいたいことを切望して、今日の訓示に代える次第であります。
【ひと言感想】
冒頭で紹介した、『核抑止論の虚構』という書籍を、いま読み進んでいる。現在、世界の安全保障の議論の上で、核を保有しているか否か、あるいは、自前で保有せずとも他国の核の傘の下にあるか否かが、重要な問題として扱われることがある。一方で、いま全世界に存在する核兵器の数は、地球を50回以上繰り返し滅亡させることができるという。
最終兵器(Ultimate Weapon)としての核兵器の登場により、大国等は、実際には使えない兵器を持ったまま対峙することになった。この世界を覆った核兵器システムの一つの急所ともなる概念が、「核抑止論」である。これにより人類は、意図的にせよ偶発的にせよ、常に全面核戦争に怯えて暮らすことを強いられ、非常に脆(もろ)い土台に築かれた仮りそめの平和な時代を生きている。
核兵器について考える際に、決して忘れてはならない、最重要な視点がある。それは核兵器を、軍事問題や、いち兵器として扱うのみでは、いかなる正しい判断も為し得ないということである。まず、原爆の惨禍を被(こうむ)った人々の体験を、徹して学ぶべきであるということである。
被爆者の貴重な体験は、日本人の体験ということに留まらない。人類全体にとって、永遠に銘記すべき重要な教訓としての「人類の遺産」でもある。核兵器がひと度使われれば、いかなる地獄をもたらすか、どれほど多くの民衆に言語に絶する苦痛と悲惨をもたらすか。そのことから目を背けたままでは、いかに才知を集め巧みに安全保障を論じたとしても、最も重要な「柱」を欠いたまま世界の平和を構築することになってしまう。
「元品の法性は梵天・帝釈等と顕れ、元品の無明は第六天の魔王と顕れたり」
(治病大小権実違目、新版1331㌻)
この御文にあるように、人間の生命を手段化し、抹殺すべき対象としてしか見ない心は、「第六天の魔王」そのものである。戦争も核兵器も「元品の無明」の現れなのだ。そして、この「元品の無明」の対極にあるのが仏であり、「元品の法性」は諸天善神の働きとして現れるのである。
一人ひとりの生命に尊極の仏界を開かせていくのが法華経である。その精髄を、世界で唯一正しく実践している団体が創価学会である。「元品の無明」を打ち破り、「元品の法性」を呼び起こす対話に、改めて挑戦していく決意である。



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