人を損ずるは妄語・強言なり

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善無畏三蔵抄 (新版1194㌻)

たとい強言(ごうげん)なれども、人をたすくれば実語・軟語(なんご)なるべし。たとい軟語なれども、人を損ずるは妄語・強言なり。

 

当世の学匠等の法門は、軟語・実語と人々は思しめしたれども、皆、強言・妄語なり。仏の本意たる法華経に背く故なるべし。日蓮が「念仏申す者は無間地獄に堕つべし。禅宗・真言宗もまた謬(あやま)りの宗なり」なんど申し候は、強言とは思しめすとも、実語・軟語なるべし。

 

(中略)
しかるに、「念仏は無間地獄に堕つる」と申せば、当世牛馬のごとくなる智者どもが、日蓮が法門をかりそめにも毀(そし)るは、糞犬(ふんけん)が師子王をほえ、癡猿(ちえん)が帝釈を笑うに似たり。

 

池田先生の講義に学ぶ、第14回 (大白蓮華2025-2月号)

いかなる大難があっても何も心配することはないし、恐れる必要はありません。本抄に仰せの如く、最後まで自行化他にわたる題目を声も惜しまず唱え抜いていけるかどうか。それが師弟不二の「如説修行の信心」の肝要です。

 

「『……法華経独り成仏の法なり』と、音(こえ)も惜しまずよ(呼)ばわり給いて」(新603・全504)の一節が心に蘇ってきます。これこそが「如説修行の実践」の要諦と言えるでしょう。

 

声を惜しむことなく、言うべきことをはっきり言う。語るべきことは、一言一句たりとも、語らずにはおかない――。この折伏精神に基づいた弘経の方軌を忘れない限り、広宣流布は必ず大きく前進します。そう御本仏・日蓮大聖人が御断言されているのです。また、これが学会精神です。

 


 

【ひと言感想】

表面はソフトに見える言葉でも、人を損なう言葉は、柔らかい言葉【軟語】ではなく、その実体は【妄語】であり【強言】であると仰せだ。仏の本当の心(=法華経)に背くゆえに、妄語・強言となるのである。広く言えば、いま社会を騒がせているFAKE情報や、デマ、嘘、誹謗中傷など、人を傷つけ陥れようとする言葉は、妄語・強言の例である。

 

一方、強盛で純粋な信心から発した言葉は、表面を美辞麗句や慇懃(いんぎん)さで飾らなくとも、自他の生命を守り、広布の和合僧団(=学会)を護るので、実語(=実(まこと)の言葉)であり軟語なのである。表面の姿に騙されてはならない。

 

日顕宗は学会を破門後、衰亡の坂を転げ落ちている。彼らは彼らなりに、生き残りに躍起になっている。その悪の先兵として、ブラック・ジャーナリスト、評論家等が、結託し影で暗躍しているであろうことは、過去の学会弾圧の経緯からも想像に難くない。

 

日顕宗の機関紙誌等を通して得た、そうした極悪の悪知恵を駆使した文章を、リアルやネット等多くの場を利用して、手先となる人間が、喧伝(けんでん)しているのではないかというのは、当然推測できることである。つまり言いたいことは、1人の人物の言動ではないので、次から次へと、誹謗中傷のネタが尽きることが無いということである。

 

時間をもて余しているなら別だが、学会員はとくに忙しい存在である。真面目でもある。ネットでは昔から「荒らしは相手にするな」と言われる。相手にするから増長してくる面がある。表面はソフトな物言いであっても、その本性・魂胆は何が隠されているか分からない。

 

カテゴリーから退出する・しないの問い掛けについては、自分のあの記事の主旨(名誉毀損と侮辱罪について)をはぐらかした、論点のすり替えではないか。自分の意思はすでに何度か明言しているではないか。建設的な対話が出来ないなら、時間の無駄であるし、誹謗中傷の羅列をしたいなら、不快感を募らせるだけだ。他所(批判・告発カテゴリ)でやればいいのである。

 

その上で、自分も、いち利用者として強制力は持つ訳ではないから、出て行くか居座るかは、最終的に山田耕作氏、あなたが決めるしかないのでは。

 

 

 

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