泣いて馬謖を斬る(1)

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中国の民衆に千数百年にわたって読み継がれてきた『三国志』。その終盤において孔明が、なぜ泣いて馬謖【ばしょく】を斬らなければならなかったのかを、考察してみます。

魏・呉・蜀が熾烈な戦いを繰り広げていた三国志の時代。西暦228年の宿敵・魏との戦いにおいて、蜀【しょく】の宰相・諸葛孔明は、歴戦の武将たちを抑えて若き馬謖【ばしょく】を指揮官に任命します。孔明は馬謖に対して、敵軍の進軍を阻止するべく、最重要の地である街亭【がいてい】を死守するよう命令します。ところが馬謖は命令に背き山上に陣を取ったため、水路を絶たれ多くの兵を失った上に、みすみす敵を素通りさせてしまうという大惨敗を喫したのでした。

そもそも、孔明の友人・馬良の弟であった馬謖を、兄の戦死後、孔明が引き取って、大事に育てました。池田先生は『私の人間学(上)』で、馬謖について次のように述べています。

「馬謖は、経験が乏しく、また才と功に走るきらいがあった。もちろん孔明はそれを知りつつあえて起用した。孔明としては、それだけ、”ここ一番”という思いで、馬謖に賭けたのであろう。(中略)しかし、悲しいかな、馬謖にはそうした心の深さがわからない。溢【あふ】れる才と、功を求めて走る心を払拭【ふっしょく】しえなかった」

「周到に積み上げた孔明の作戦は、音を立てて崩れてしまった。さながら針に糸を通すように少ない兵力、人材をもって魏に迫ろうとした孔明の粒々辛苦【りゅうりゅうしんく】が、余りにも安易な若者の慢【おごり】によって、水泡に帰してしまうとは……。しかもその命令違反の張本人が、彼が大成を期待し、育てた人物であったとは……」

先生は、馬謖が己の才気に走り、功を焦る心が強かったと仰っています。確かに、戦死した優秀な兄の分まで、一身に期待をあびた馬謖の心中はどうだったでしょう。「優秀だが兄には劣る」との評価をくつがえし、「馬謖はさすがだ、兄を超えた」と言われたかったのでしょう。たとえ、街亭の戦いで、孔明の指示通りに動き、成功を収めても、それは孔明の手柄にしかなりません。あえて命令に背き自分らしいやり方で成功を収め、周囲からの評価を高めたいとの意思が、強く働いたのでしょう。

結局、孔明は泣いて馬謖を斬罪に処すのですが、先生はその背景に、「蜀の人材欠乏」があったと考察されています。すでに関羽、張飛亡く、建国以来の重臣も相次いで亡くなり、孔明一人心労を尽くすしかない蜀の状況でした。そして次の戸田先生の言葉をひかれます。

「人間おのおの長所もあれば、短所もあるものだ。さすがの孔明としてもいかんともしがたいところがあろう。蜀の国に人材が集まらなかったのは、あまりにも孔明の才が長【た】け、几帳面すぎたからだ。(中略)しかも、彼には、人材を一生懸命探す余裕もなかった。そこに後継者が育たなかった原因があると思う」

若さというのは、そもそも向う見ずのものです。ある意味、本当の怖さも己の限界も知らない。また、才能がある場合、どうしても己の才を頼り、慢心の落とし穴に陥ってしまうものです。だからこそ、どこまでも謙虚に、自己を徹して磨き抜いていく姿勢が必要となります。老いも若きも補い合いながら「生涯青春」で、情熱をもって何事にも挑戦していってこそ、広布の大事業も成せます。「人を育てる人こそが真の人材」との指針を、改めて自ら実践していきます。

 

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