貧乏の鉄鎖を切る(6)

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「貧乏の鉄鎖を切る」との文言を私が初めて見たのは大白蓮華ででした。
その体験全文をここで紹介させて頂きます。
必要に応じて名称等を略します。

貧乏の“鉄の鎖”を切った!

Hさんの体験(2004年11月大白蓮華)


債務の重圧

 金銭の問題は鉛のように重く心にのしかかる。

 昭和61年、やっとの思いで新宿・K町に韓国食材の店を開いたHさん。それまでは八百屋でもらうキャベツの切れ端が毎日のおかずだった。3人の子を寝かせ、深夜、まかないの仕事へ。3年間、つめに火をともす思いで貯【た】めたお金と、知人からの借金でこぎ着けた店だった。祈り抜き、10数世帯の折伏をやり抜いて、女手一つで開店した店だった。ようやく北新宿のおんぼろアパートから抜け出せた。しかし――。

 行方がわからなかった夫がやって来た。かつてHさん夫婦は、居酒屋、ゲーム店など5店舗を経営。しかし夫は競輪、競馬に明け暮れ、勝手に店を売り飛ばして消えた。残ったのは多額の負債。その夫が、また金をむしり取りに来た。包丁を突き付けられたのも1度や2度ではない。殺されれば楽になるとさえ思った。レジの金をわしづかみにして出て行く背中を目で追いながらHさんはつぶやいた。「これで店も終わりだ・・・・」。

 当時、Hさんは医師から、肝臓も腎臓も80歳の老人のようだと診断された。夜は寝ても2~3時間で目が覚めた。店では立っていられなくなり、そのたびに地下の2畳の物置へ。ダンボールを敷いた床に丸くなって横になり、題目を唱え、30分ほどして、また店に出た。「焼けた鉄板の上をころげ回っていました。苦しすぎて御本尊から離れられなかった」。歩いていても、仕事をしていても、夜に目が覚めても、口から題目がでた。

 その夫がまた、どこからか巨額の借金をしてきた。限界はとうに越えていた。Hさんは離婚するしかないと決めた。

 夫は2度と姿を現さなくなった。今度は借金の取り立てがやって来た。「それまで夫の使ったお金は、それこそビルがいくつも建つほどでした」。K町の店にやって来たのは暴力団風の男たち。「お前を殺して刑務所に入ってもいいんだぞ!」とすごまれたことも――。店を守るのに必死だった。子どもたちを守るために。「お客に手を出したら一銭も払わないよ!」。夫の借金は本来、Hさんには関係のない負債だった。それでもHさんは金を返し続けた。

 Hさんには抱きしめるようにしている言葉がある。池田名誉会長のスピーチだ。“どんな宿業も、どんなに鉄の鎖【くさり】で体をぐるぐる巻きにされ、鍵をかけられたとしても、唱題はすべての宿業を切る”――この指導が現実のものとなった。

 ある日、自転車でO町を通っていた時のこと。行き交う人たちを見ながらHさんはふと思った。「御本尊があるのに、こんなに苦しいなら、御本尊のない人はさぞ苦しいだろう。信心すれば幸せになれるのに。そうだ、私が皆を救っていこう」。その瞬間、心がパアッと明るくなった。どん底に縛りつけられた境遇だった。しかし、人々を救おう、救えるという、どうしようもない信心の確信がわいてきた。名誉会長は語っている。「たとえ身は牢獄にあっても、(中略)民衆を愛する人は、心は大空のように広がっている」。

 Hさんの心が変わった。御本尊への確信で。人々を救おうとする慈愛で。どんなに苦しくともあげ抜いた唱題で。それは宿業の鎖を切った瞬間だった。

 平成8年、近くに韓国物産のスーパーが出店したのを機に、Hさんは思い切って店をたたみ、新たに焼き肉店を開店した。56歳からの挑戦。まったくの素人で、最初は友人までがまずいと言った。研究に研究を重ねた。肉の切り方一つが味を変えた。Hさんが目指したのは故郷の韓国・済州島の味。素朴で豊かな味だった。「唱題で智慧がわきました」。客が少しずつ増えていった。なかには、かつての借金取りまでいた。さらには他の焼き肉店の店主まで。「仏法対話をしただけお客さんが増えました」。行列ができるまでに繁盛し、4店舗にまで発展した。内臓のがんも乗り越え、今では夫のかつての借金と同じほどの税金を払うまでになった。

 Hさんは言う。「夫がいたからこそ信心を貫けました。今は幸せを祈っています」。

 そして何よりうれしいことがあると言う。

 「今、昔の私と同じ境涯の人が集まってきます。それで気付きました。貧乏で、何もなかった私です。こんな私にも使命がある! 同じ宿業の鎖を断ち切る使命が」

 

貧乏の鉄鎖を切る(1)

貧乏の鉄鎖を切る(2)

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