我此土安穏 -御本尊は常に“我が胸中”にある

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うち続くコロナ禍に異常気象、そして、アフガニスタンやミャンマー等での悲惨…心が痛むとともに、不安とともに生きざるを得ない昨今です。そこで、考えるところあって、先生の昔の書籍を開いてみました。法華経本門の肝心である寿量品には、次のような経文があります。

 

「没在於苦海」
「大火所焼時」
「我此土安穏」
「衆生所遊楽」

 

これらの法華経経文の講義が、『池田名誉会長の法華経「方便品・寿量品講義」』-寿量品 にあります。

 

 

 

御本尊は常に“我が胸中”にある
(中略)
「衆生見劫尽 大火所焼時」。これは衆生の生命に映った苦悩の世界です。“衆生は世界が滅びる時が来て大火に焼かれていると見ている”というのです。まさに、苦悩と恐怖に満ちた地獄です。

 

ところが、次の「我此土安穏」以下では、様子は一変する。ここには、安穏があり、躍動がある。喜びがあり、輝きがある。にぎやかな音楽があり、豊かな文化があります。これが仏の「大いなる境涯」から見た真実の世界です。

 

この二つの世界は、実は「同じ世界」です。同じ世界が、衆生と仏では、全然違って見えている、違って感じているのです。日蓮大聖人は、衆生が見ている大火とは「煩悩の大火」(御書757㌻)であると仰せです。焼け滅びているのは、世界ではなく、自分の生命です。それに、恐れおののいている。

 

それに対して、仏は“あなたたちは、何を恐れることがあろうか。何を嘆くことがあろうか。真実は、あなたたちが見ているのと、全然違うのだ”と諭(さと)すように、こう語り始めるのです。「私の住むこの国土は、永遠に安穏なのだ」と。この一言で、仏は、衆生の「小さな境涯」を破っているのです。一切の衆生を、全人類を「仏の大境涯」に高めたいとの、大慈悲の言葉なのです。

 

「人間は楽しむために生まれてきた」
(中略)
法華経は「衆生の心」に問いかけます。また、衆生が自ら問い、考えることを促します。「一体、私たちは『何のために』この世に生まれてきたのか」と。人間は苦しむため、悩むために生まれたのか? 否(いな)です。宿命に泣くために生まれたのか? 否(いな)、絶対に否です。

 

戸田先生は、「衆生所遊楽」の経文を通して、いつも言われた。「人間というのは、世の中へ楽しむために生まれてきたのです。苦しむために生まれてきたのではないのです」この世に遊びに来た、楽しみに来たのだと。「衆生所遊楽」──衆生の低い人生観、幸福観をひっくり返す、すばらしい言葉です。

 

もちろん、この「遊楽」とは、享楽的な“うわべの楽しみ”ではありません。それらは、現実の荒波の前では、あまりにも空(むな)しい。しかも、裟婆世界は「堪忍(かんにん)世界」。苦悩と恐怖の充満する、この世を生きることが、“堪え忍ぶ”ことが、どれほど大変か。自身の境涯が低ければ結局、敗北です。

 

しかし、仏の眼で見るならば、また衆生が胸中の「仏の境涯」を開くならば、この裟婆世界が即、「衆生の遊楽する」楽土となる。いわば、この世の舞台で、私たちは「楽しく生き抜く」という人生の劇を演じているのです。

 

自在で楽しい遊楽の人生を開け
日蓮大聖人は仰せです。「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり」(御書1143㌻)──深く妙法に則(のっと)っていく時、この世の「苦楽ともに」、楽しみ切っていける醍醐味の人生を生きていけるのです。

 

 

 

この経文と講義を、私たち学会員が体現していく使命があります。世界と地域を照らす「希望の灯台」として立ち、安穏な社会実現のための目前の戦いに勝利していくのです。われわれ学会員こそ、その主体者なのです。

 

 

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