悪人は仏を炭とも敵とも見る -指導集(32)

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正直なところ、読むのも気持ち悪いのだが、いつまでも創価ブログ村に居座って、学会への難クセに明け暮れている一人の退転者がいる。投稿時刻の記録を見ると日中に何度も投稿していることから見て、ろくに仕事もしていない人間であろうか。

 

批判・告発カテゴリがわざわざ用意されているのだから、そこに居ればよいものを、創価カテに粘着(ねんちゃく)して去ろうとしない。「嘘も百回言うと本当になる」そうだから、このまま放置しておく訳にもいかない。そこで、今回は次の先生のご指導を抜粋する。

 


 

●関西記念幹部大会での池田先生のご指導 1987年9月(池田大作全集第69巻)

前後が欠落した断間(だんかん)ではあるが、「破信堕悪御書」という御抄がある。そこで大聖人は、次のように仰せである。

 

かたき(敵)はおお(多)く、かたきはつよ(強)く、かたうど(方人)はこわ(硬)くして、しま(為負)け候へば、悪心をおこして、かへって法華経の信心をもやぶ(破)り、悪道にお(堕)ち候なり。あ(悪)しきところをば、ついしさ(退)りてあるべし。

釈迦仏は、三十二相そなわって、身は金色、面は満月のごとし。しかれども、あるいは悪人はすみ(炭)とみる。あるいは悪人ははい(灰)とみる。あるいは悪人はかたき(敵)とみる。
(破信堕悪御書 新版2164㌻)

 

 

悪人は仏を炭とも敵とも見る

 

つまり――敵は大勢で、強く、味方は厳しくてついていけないので、悪心を起こして、かえって信心を破り、悪道に堕ちてしまう。人間は、悪い状況では、つい避けようとするものである。釈迦仏は三十二相が備わっていて、身は金色に輝き、顔は満月のようである。しかし、その釈尊を、ある悪人は炭と見、あるいは灰と見る。ある悪人は敵と見るのである――と。

 

これは、退転者の濁った生命の本質を、鋭く示された御文であると拝する。順調な時は信心に励むが、ひとたび逆境となり強敵が現れると、臆して、信心の世界から遠ざかる。そして信心の堕落が始まり、清浄なる「信心即生活」の信仰についていけなくなり、みずから「悪心ををこして」去っていく。そればかりか、みずからを正当化し、かえって正法に敵対さえする。

 

そのような悪人になり下がった人間たちには、どのような正義の言動も、正義と見ることは出来ない。みずからの心が濁り、ゆがんでしまっているからである。そうした悪人には、色相荘厳の仏ですら、みすぼらしく見え、あるいは敵に思える、と指摘されている。いわんや私どもは、凡夫である。彼らの卑しい心に、どう見えるかは想像もできない。しかし、それらは、いわば、ゆがんだ心のスクリーンに映った虚像にすぎない。ゆがんだ心に実像が正しく映るわけがない。

 

また、いいかえれば、狂った悪人の胸中とは、嵐が吹き荒れ、陽光が差すこともない、暗く、わびしい世界のようなものだ。たとえ風がやみ、夜となっても雲と霧に覆われ、美しい満月を見ることも出来ない。太陽の光も、月光も、この胸中の世界に届くことはない。すなわち、胸中の世界が、そのまま、その人の見る宇宙であり、生きる世界なのである。

 

ゆえに、邪心の者に、いかに悪口されようとも、いささかも歯牙(しが)にかける必要はない。退転の徒の言々に、決して紛動されてはならない。堂々と信心の王道を歩んでいけばよいのである。

 


 

このご指導にあるように、根性のねじ曲がった悪人には、素晴らしいものが素晴らしいとは見えないのである。正義の中の正義であり素晴らしい学会が、悪人にとっては中傷を浴びせ、破壊したくてどうしようもない存在となるのである。なんという転倒(てんとう)であろうか。だからこそ、「『一』の暴言、中傷を聞いたならば、『十』の正論を語り抜け」との先生のご指導を徹して実践していきたい。

 

 


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