僧俗差別の宗門から決別、蘇生の人生を歩む【脱講体験1】

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●創価新報 令和5年12月20日号5面から(部分的に要約)

 

僧俗差別の宗門に辟易(へきえき) 同窓生が脱講
 ―人間革命の哲学に大聖人の仏法を実感

 

【声】神奈川県在住・Oさん

小学生時代の友人・Kさんは25年もの間、法華講員として活動していましたが、2年越しの対話の末、救済することができました。彼女は約30年前、親戚のよしみで日蓮正宗に入信、当初は信徒としての自覚もありませんでしたが、親類の居並ぶ法華講幹部たちに言われるまま、御講、寺の諸行事、登山などに参加するようになりました。

 

南之坊を皮切りに、法道院、善福寺と所属寺院を移りましたが、法華講の活動をすればするほど、自身の精気(せいき)が失われていくのを感じたそうです。宗教性に欠けた坊主の言動にも違和感を抱くように。御講では御書を学べるかと思いきや、学会批判に大半が割かれる始末。たまに法話があっても、住職が一方的に話すだけ。仕事や人間関係での悩みがあっても、相談できる雰囲気など全くありません。末寺でも本山でも、どこへ行っても、「坊主が上、信徒が下」との空気が蔓延(まんえん)していました。

 

それを思い知らされたのは、甥(おい)が逝去した時のこと。彼女の悲しみに寄り添う言葉など全く無く、事務的な様子で塔婆(とうば)を立てる坊主の姿に、愕然(がくぜん)としたそうです。”もう、生きていくのがつらい” ――憔悴(しょうすい)していたKさんと私が再会したのは、同窓会でした。そして、旧交を温める中、Kさんは法華講員であることを明かし、学会批判をしてくるように。それらは長年、坊主から吹き込まれた事実無根の与太話(よたばなし)ばかり。

 

私は、「学会の世界を少しでも自分の目で検証したのかい? ”認識せずの評価” は人として恥ずべきことだよ」と諭(さと)しました。元来、理知的なKさんの信条は、根拠のない噂話(うわさばなし)を ”信じない・話さない” ことでしたが、知らぬ間に坊主らに毒されていたことに気づき、深いショックを受けていました。以来、小説『人間革命』 『新・人間革命』を学ぶように。そして、2018年夏、自ら脱講届けを寺へ提出しました。

 

その後、学会員のNさん、Kaさんなど、多くの女性部の方々の励ましと祈りに包まれて、2019年学会家族の一員に。2020年に任用試験、本年は初級試験に合格。副白ゆり長として頑張っています。今では、「今日の聖教新聞、素晴らしいから、ちゃんと熟読してね」と、微笑ましいラインを送ってくるまでに。彼女の蘇生した姿に、信心の素晴らしさ、創価の世界の温かさを改めて教えられています。

 

 

 


コメント

  1. ラン より:

    レオさん、おはようございます(^^)/記事ありがとうございました。

    今月の座談会で、再びピアノ演奏することになりました。
    皆さんに勇気と希望を与えられるように、しっかり祈って本番むかえます(^^♪

  2. レオ より:

    ランさんピアノ演奏お疲れ様です。音楽は民族・人種等、あらゆる垣根を越えて人と人の心を結びますね。

    実は自分もベートーヴェンの交響曲を毎日、仕事中などにBGMとして流しています。もう何千回か1万回聴いたか分からないほどです。

    素晴らしい座談会になりますね。頑張ってください!