一闡提の対治こそ災難を防ぐ方途(2)

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●前回のつづき 立正安国論講義(池田大作全集26巻)179ページ以降

「法蓮抄」には、この立正安国論の要点を、自ら次のように示されている。「彼の状に云く〔取詮〕此の大瑞は他国より此の国をほろぼすべき先兆なり、禅宗・念仏宗等が法華経を失う故なり、彼の法師原が頚【くび】をきりて鎌倉ゆゐ【由比】の浜にすてずば国・正に亡ぶべし等云云」(御書1053㌻)

また「撰時抄」にいわく、「去し文永八年九月十二日申【さる】の時に平左衛門尉に向つて云く日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦【はしら】を倒すなり、只今に自界反逆難とてどしうちして他国侵逼難とて此の国の人人・他国に打ち殺さるのみならず多くいけどりにせらるべし、建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやき【焼】はらいて彼等が頚をゆひ【由比】のはま【浜】にて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ」(御書287㌻)と。

右の御文に拝されるように、日蓮大聖人御自身も、涅槃経の文によって「邪法の僧らの頸【くび】を切れ」と叫ばれたのである。しかし、これひとえに謗法の心を断ち切り、謗法の行為を殺せとの意なのである。仏の慈悲は、母の慈愛ではない。父の厳愛に譬【たと】えられる。一切衆生を慈愛するからこそ、悪に対して厳格なのである。

ゆえに、立正安国論では「それ釈迦の以前仏教はその罪を斬るといえども能忍の以後経説はすなわちその施を止む」と仰せられているのである。日寛上人は「撰時抄文段」に「『すなわちその施を止む』とは、為人悉檀【いにんしつだん】に約す。『頸を刎【は】ぬべし』とはこれ対治悉檀に約す」(文段集303㌻)と教えられている。

いま、われわれが、折伏を行じて、誤った宗教や低級な思想を完膚【かんぷ】なきまでに打ち破るのは、「頸を斬れ」とのお心に応【こた】えることになるのである。また、そうした宗教に迷わされている民衆を、正義にめざめさせて、低級宗教から離れさせているのは「施を止【とど】む」に適【かな】う行為といえよう。

 

 

●本書289ページから

さらに、いま本文で、釈尊のことを“能忍”と表現されていることにも、その意義が込められている。この現実世界は娑婆世界と呼ばれるが、裟婆とは堪忍【かんにん】の意である。苦悩におおわれ、貪瞋痴【とんじんち】三毒強盛の衆生が充満するのが娑婆世界である。

それゆえに、仏の特色はなによりも「能【よ】く忍ぶ」ことにあるとされる。したがって、この世界において正法を行じ弘める人は、邪悪な人々によって数々の暴力を加えられるが、それに堪【た】えるべきであって、謗法者だからといって、こちらから暴力や武力を振るうのではない。唯一、これに対抗し、悪の根を断ち切る方途は、人々に正邪を知らしめ、謗法者への布施を止めさせることである。

これは、目的が異なるが、のちにガンジーによってイギリス植民支配権力を倒すため採用された、不買運動等による非暴力抵抗主義と底流において相通じているといえよう。

※立正安国論講義は2分冊となっており、『池田大作全集第25巻』に「立正安国論講義(上)」が、同26巻に「立正安国論講義(下)」が収められています。

 

 


【レオのひと言】

「人」とその人が説く「法」とは別々ではありません。「人法一箇」ですから、その「人」が持(たも)つ「法」が、その人の境涯を決めます。極悪の法を持ち供養する者は、好むと好まざるとに関わらず生命が極悪に染まり、最低の不幸の境涯に堕ちていきます。

 

一闡提(いっせんだい)は自らの業因で地獄に堕ちますが、決してその道連れになってはいけない。彼らが流す害悪に決して誑(たぶら)かされてはならない。極悪と戦う勇気と闘魂を、祈りで湧現するのです。謗法への布施を止める祈りと実践が自他を護り、災難を防ぐ最も有効な方法なのです。

 

魔の軍門に降(くだ)った輩には、魔がせっせと供養しますので、一時的に勢いを増す場合があります。(それも短い間のことで、第六天にとって利用価値が無くなり次第、魔からも見捨てられ無残で哀れな最期が待っているだけです)

 

そのため信心に油断があると、その表面上の姿に騙(だま)されて、正しい信心を破られてしまう危険がある。そうならないように、常に学会指導を求め、勇気ある実践を弛(たゆ)みなく持続していくことが大事です。

 

そのうえで、では法華経に提婆達多の成仏が説かれ、記別を与えられていますが、なぜ極悪・非道を尽くした一闡提が成仏できるのでしょう。法華経は「万人成仏」の教えですから、極悪人と言えど例外があってはならないのは一応は解ります。しかし、どうして提婆や阿闍世が成仏できるのか。そこにはどういう実践の方途があるのか。それは次の御文に明らかです。

 

小罪なれども懺悔せざれば悪道をまぬかれず、大逆なれども懺悔すれば罪きえぬ。
(光日房御書・新版1253㌻)

 

「懺悔(さんげ)」、悔い改めること、すなわち、自らの謗法を深く反省し、( 生まれ変わったように)真剣に正法を実践していくことです。それさえできれば、どんなに罪業が深かったとしても、妙法の力によって、過去に犯した罪業を消滅していくことができるのです。

 

宗門・日顕宗から脱講し学会に入会された方々の体験を見ると、宗門・日顕宗の非人間性、聖職者にあるまじき堕落極まった姿を、身近で長年にわたって痛感した方たちだけに、学会に入会後は徹底して日顕宗の極悪の正体を暴き責め抜かれています。そして宗門時代には決して味わえなかった、大歓喜・大幸福の人生を満喫されています。これこそ、「大逆なれども懺悔すれば罪きえぬ」を身で読んだ姿そのものです。

 

 

 

 

 

 

 


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