宿命を使命に変える -指導集(31)

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●寸鉄から 19-2-8

宿命と戦う姿をそのまま見せていけ――恩師。幹部(リーダー)の必死な姿に同志は続く。

 

●珠玉の励まし「生涯、一兵卒として」 19-4-3付創価新報

1976年(昭和51年)8月25日、九州総合研修所に集った男子部、学生部の中核メンバーへの、山本伸一の万感の思いが込められた指導がつづられています。

 


学会も組織である限り、皆が皆、中心者になるわけではない。脚光を浴びる立場から外れる場合も、当然ある。実は、その時に、人間の本性が現れ、真価がわかる。それをきっかけに、組織から遠ざかり、やがて、離反していく者も出るかもしれない。自分に光が当たらなくなると、離反はせずとも、ふてくされたり、勝手な行動をとる者、傍観者を決め込む者も出るでしょう。

 

(中略)

生涯、一兵卒となって、広宣流布のため、同志のために、黙々と信心に励んでいくことです。唱題に唱題を重ねながら、会員の激励に、座談会の結集に、機関誌の購読推進に、弘教に、地を這うように、懸命に走り回るんです。それが仏道修行です。それ以外に信心はない。勇ましく号令をかけることが、信心だなどと、勘違いしてはならない。

 

模範の一兵卒たり得てこそ、広布の大リーダーの資格がある。私は、君たちが五十代、六十代、七十代・・・と、どうなっていくか、見ています。人生の最後をどう飾るかだよ。
(「敢闘」の章)

 

●忘れ得ぬ瞬間(とき) 創価大学・女子短大2004年4月入学式 19-4-30

正義のため。平和のため。人民の幸福のため――この最も大切な目的に向かって、勇敢に戦い抜き、忍耐強く勝ち抜いていく。これが「青春の英雄」であり、「生命の勝利者」であります。そのためには、心して良書を選び、徹底して読破していくことです。

 

恩師・戸田先生は、厳格に悪書を斥(しりぞ)けました。「良書を読め」と常々言われた。 私も若き日、恩師から毎日のように聞かれました。「今、何を読んでいるか」「どんな内容か」。忙しくて読み進んでいないと、たちまち見抜かれた。一緒に旅行した時は、列車に乗っている間じゅう、読んだ本の話をさせられました。東北から東京までの旅の長かったこと――。

 

ともかく先生は読ませました。私を訓練しました。今思えば、幸せなことです。訓練から逃げた人、努力を避けた人は、その時は気楽でいいかもしれないが、後になって苦しむ。あえて苦難の道を、自分を鍛えるために、諸君は頑張り抜いてもらいたい。

 

●仏法哲理の泉 大白蓮華2019年2月号p.100

宿命転換論の真髄は「願兼於業(願い、業を兼【か】ぬ)」です。大聖人は「開目抄」で、御自身が妙法を流布して三類の強敵の迫害を受けていることは、経文に説かれた末法の法華経の行者の姿そのものであると仰せられています。そして、佐渡流罪に処せられたことで、ますます悦びを増していると宣言されています。

 

大聖人にとって、今、御自分が受けられている大難は、御自身の使命を果たすために願って受けている大難である。つまり、一切衆生を救うために受けている苦しみだから大いなる悦びであると宣言されているのです。

 

(中略)
大聖人は、御自身の一人の人間としての戦いを通して、悪世に生きる私たち凡夫の宿命転換の道を教えてくださったのです。いかに進退きわまった、業に縛られたような境遇にいる人であっても、その本質を見れば、願兼於業の人生であることを示されているのです。

 

(中略)
すなわち、宿命を使命に変えた場合、その宿命は、悪から善へと役割を大きく変えていくことになる。「宿命を使命に変える」人は、誰人も「願兼於業」の人であると言えるでしょう。 だから、すべてが、自分の使命であると受け止めて、前進しぬく人が、宿命転換のゴールへと向かっていくことができるのです。

               ◇◆◇◆

戸田先生も、「初めから立派過ぎたのでは人々の中に入っていけないから、われわれは仏法を弘めるためにわざわざ貧乏や病気の姿をとって生まれてきたんだよ」 「人生は芝居に出ているようなものだよ」と、しばしば言われていた。また、「戸田は妻を失い、娘まで亡くした。事業も失敗した。そういう苦悩を知っているからこそ、創価学会の会長となったのだ」とも言われていた。

 

苦労もない、悩みもないというのでは民衆の心が分かるわけがない。人生の辛酸をなめた人であってこそ、人々を救うことができるのです。

 

自分の苦しみを「業」ととらえるだけでは、後ろ向きになる。それを、あえて「使命のために引き受けた悩みなのだ」 「これを信心で克服することを自分が誓願したのだ」と、とらえるのです。願兼於業は、この「一念の転換」を教えている。宿命を使命に変えるのです。自分の立てた誓願ゆえの悩みであるならば、絶対に乗り越えられないはずがない。

               ◇◆◇◆

インドの国父、マハトマ・ガンジーは言っています。「私がもし生まれてくるとしたら、不可触民として生まれてきたい。悲しみや苦悩や彼らに与えられた侮辱を分かちあい、みずからと不可触民をその悩める境遇から救い出すよう努めるために」この心は「願兼於業」に通じると思う。慈悲です。「ともに生きる」ということです。

 

 いちばん苦しんでいる人の中に、生まれてくるのです。
 いちばん苦しんでいる人の中に、仏はいるのです。
 いちばん苦しんでいる人を、いちばん幸福にするために仏法はあるのです。

 

 

 

●各部代表者会議 13-1-25

眷族を呼び起こせ!

戸田第二代会長は、よく語っていた。
「男女を問わず、我々は、皆、地涌の菩薩であり、広宣流布の勇将である。大勢の眷族を引き連れて、この娑婆世界に生まれてきたことは、絶対に間違いない。そう決めて、日々、祈り、動き、語っていくのだ。宿縁の眷族たちが一人また一人、必ず自分の前に現れてくる。そして広布のために働いてくれるようになる。一対一の対話で、道はいくらでも広げられるのだ」

 

●池田先生の講義「敬愛する新会員の宝友へ(2)」 18-9月号大白蓮華

(p.35~)
わが恩師・戸田城聖先生は、常々、私たち学会員に、「悩みがあるならば、折伏をするのだ!」 「折伏の中で自身の宿命転換もできるのだ!」と教えられました。

 

折伏とは、相手を論破するとか、打ち負かすことではありません。誰もが仏性を具えた尊極の存在であり、その「自他共の」尊厳性に目覚めよという励ましであり、呼びかけです。不軽菩薩の振る舞いそのものです。それは、自身の「諦め」 「無力感」などの無明の氷壁を破る戦いでもあります。

 

他者の誰かを折伏しつつも、実は、自分自身の無明、煩悩を折伏しているのです。だから、悩みに負けない、強い自分になれる。自身の境涯の変革も宿命転換も、断固と成し遂げていけるのです。その意味で、折伏の本義とは、自身の”臆病や怠惰、迷いの心を折り伏【おりふ】す”ことであり、それが、自他共の”無明を折り伏【おりふ】す”ことになるとも言えるでしょう。

 

(p.39~)
人はそれぞれ個性も境遇も違います。悩みも苦しみも千差万別です。しかし仏の眼から見るならば、誰もが生老病死の苦海【くかい】にある、いじらしい衆生です。その一人一人に、一切衆生の大良薬たる妙法を与えるのです。粘り強く、生命の共鳴板に呼びかけていくのです。

 

御文に「強【し】いて」とあります。「強いて」とは、”強引に”という意味ではありません。”あえて”です。人と人との善のつながりを求めて、積極的に触れていくことです。相手の機根や反応に翻弄されるのではなく、あえて関わり、あえて説くのです。あえて正義を語るのです。これが折伏であり、仏法対話です。その本質は、下種の活動です。厳然と「仏の種」を蒔【ま】いているからです。

 

(中略)
日蓮大聖人は、在家の門下に「其の国の仏法は貴辺にまか(任)せたてまつり候ぞ」(1467㌻)と信頼し託されたうえで「仏種は縁に従【よ】って起る」(同㌻)と仰せられました。仏性を薫発する下種結縁という「縁」が、どれほど大切か。相手の生命に必ずある仏性を呼び覚ますには、仏種を植えるしかありません。仏の性分は、仏縁によって発動するからです。だからこそ、仏法対話をするのです。それが必ず、相手の仏性を呼び覚ます最極の縁となるのです。また「仏の種」を蒔けば、「一句妙法に結縁すれば億劫にも失せずして」(793㌻)と仰せのように、その種は未来永遠に消えてなくなることはありません。

 

●池田先生の講義「敬愛する新会員の宝友へ(3)」 18-10月号大白蓮華

不撓不屈の大生命力を引き出す

日蓮仏法は、何かにすがるような弱々しい信仰ではありません。不撓不屈の信念で希望を引き出すのが、日蓮仏法の祈りです。この仏の智慧と力の源泉が、南無妙法蓮華経の唱題行なのです。大生命力を引き出せるかどうかは、どこまでも信心によるのです。

 

苦しい時、悲しい時、辛い時には、その気持ちのまま、無心に唱題していけばいいのです。慈父や悲母に思いのたけを打ち明けるように、祈りを重ねていくことです。悩みを祈りに変えていくのです。

 

何よりも、唱題していけば、”絶対に勝ち越えてみせる”との、勇気がふつふつと湧いてくるものです。すぐには解決しなくとも、やがて「地獄の苦しみぱっときへて」(1000㌻)という時が必ずきます。振り返った時、一番、自らを悩ませている難問が、一番、境涯を躍進させゆく転機となっていることに気がつくでしょう。祈りによって、胸中に使命という歓喜の太陽を昇らせるのです。そして、今世の人生の劇を最高に輝かせていくのです。

 

 

 

 


コメント

  1. ラン より:

    レオさん、池田先生の数々の御指導をありがとうございます!

    「他者の誰かを折伏しつつも、実は、自分自身の無明、煩悩を折伏しているのです」

    誰かを折伏することは、自分自身の悪を滅し、折伏していることでもあるのですね。

    「悪を滅するを「功」と云い、善を生ずるを「徳」と云うなり。」
                   (御義口伝 法師功徳品四箇の大事 新・P1062 全P762 )

    折伏行で自他共の「善性」を薫発していこうと思います(*^-^*)

  2. レオ より:

    ランさんメッセージありがとうございます。仰る通りですね。この投稿のご指導とも関連あると思いますが、ランさんのブログの記事『自他共の悪を滅する折伏行』素晴らしかったので、また保存させてもらいました。

    有名な、豆腐2丁とオカラ1つの譬えにもあるように、自他ともに大功徳を受けられるのが折伏ですからね。要は自身を折伏する所から始めて、さらなる実践への勇気を奮い起していきます!