一遍の唱題に広大の功徳(3) -10時間唱題(25)

この記事は約5分で読めます。

イメージ画像です

 

もう夏も終わり秋ですね。投稿が遅れましたが9月10日に、唱題10時間を完遂しました。7週連続となるとともに、本年11回目です。(昔、男子部有志で行なったのを含めると総計26回目です。)

 

10時間唱題管理表

 

その題目の力としか思えないのですが、目前の絶体絶命の窮地に道筋と曙光が見えてきました。詳しくは申せませんが、今とるべき行動がかなり明確化してきており、とにかく前進のスタートをきることができたのです。先生と学会に感謝しかありません。

 

未だ依然として苦境の只中ですが、前を向いて、引き続き我が生命の仏界を、勇気ある実践で涌現していきます。そして必ずや勝利のご報告を、師匠・池田先生にしていきます。

 

[追伸]
本文にも書きました通り、好転の兆しが見えるとともに、寸暇を惜しんで為さねばならないことが出てきました。よって、毎週連続の10時間はいったん終了とし、毎月1回に切り替えることとします。読者の方で題目を送って頂いた方がいましたら、心より感謝申し上げます。ここで、先生のご指導の続きを学びましょう。

 

 

【続き】一遍の唱題に広大の功徳 ~「5・3」記念関西ファミリー総会
(創価大学記念講堂/平成5年5月4日/『池田大作 全集 第82巻』から)

唱題に「画一性」「強制」は無価値
一遍でこれだけの功徳があるのだから、「きょうは三遍もあげた」(爆笑)と大いばりでよいのである。その歓喜が大切である。御書には何遍あげなさいとか、何時間やりなさいとは定められていない。そのうえで、もちろん、題目は、たくさんあげられれば、そのほうがよいことは言うまでもない。しかし、それはどこまでも、自分自身の自覚と決意にまかせて行うべきである。義務や形式ではない。

(中略)
長時間、唱題することで、生活が放ったままになったり、人を巻き込んで嫌な思いをさせたりすることが、あってはならない。また自分は、一日にこんなに長時間、唱題したのだと、時間の長さを自慢する必要もない。こうした姿は、周囲に、さまざまな点で誤解を生じやすい。近隣から、狂信のようにも思われかねない。そうなれば、信頼を失い、法を下げてしまう場合もあろう。

組織での場合も同じである。”十時間題目闘争”などと銘打【めいう】って行っている場合もあるが、二、三人の有志による自発的なものなどはよいけれども、大勢で一律に行おうとすれば、人それぞれに生活時間帯は異なるし、忙しさも違う。体調も違う。その意味で、何人かには結局、無理をさせてしまう可能性がある。こまやかな配慮が必要である。いわんや強制はいけない。それに参加しなければ、創価学会の本来のいき方ではないというような極端はいけない。

信心は「喜び」と「安心」「希望」をあたえることが大切である。抑えつけるような、また苦しめるような指導は、絶対に慎まねばならない。(中略)唱題の渦を起こそうと思えば、リーダーみずからが、率先して深く強く、祈ればよいのである。

未来部は勉学第一で
ご家庭での教育について一言しておきたい。子どもが勤行すれば、それだけで「成績が上がる」と思い込む―――その信心の強さ(爆笑)はすばらしいかもしれないが、勉強はやはり自分で努力しなければ、成績も上がらない。当然の道理である。

(中略)
「子どもには、“人生のたいへんな時は信心で乗り越える”ことを、しっかり教えればよいのだ」と戸田先生は指導されていた。他の子どもは、ニコニコ、楽しく学校に行っているのに、こちらは毎日、口を開けば「勤行、勤行」と責【せ】められる(爆笑)。これでは、子どもも毎日、憂鬱【ゆううつ】である(爆笑)。かえって、信心がいやになってしまうかもしれない。

お子さんが題目三遍でも、方便品・自我偈【じがげ】だけでも、すばらしいことなのだから、「よくやったね」とほめてあげることである。「早く行ってらっしゃい。あとは、お母さんがちゃんとやっておくから」(笑い)と。それくらいのゆとり、余裕、おおらかさがあってよいと私は思う。

(中略)
また、学会活動は、広宣流布の活動であり、「化他【けた】の修行」である。それ自体、身で「経」を読んでいる姿なのである。(中略)大聖人は、末法は「自行【じぎょう】化他に亘【わた】りて南無妙法蓮華経なり」(御書1022㌻)とも仰せである。この「自行化他の唱題行」を正しく実践してきたのは、ただ創価学会だけである。(拍手)

日顕宗の僧侶は、「自行」もきちんとせず、社会の中での不惜【ふしゃく】の「化他」にいたっては片鱗【へんりん】もない。ただ大聖人を利用し、学会員の信心を利用し、私たちだけを働かせて、自分たちは永遠に享楽【きょうらく】の生活を送ろうとしたのである。極悪の魔性の存在である。(拍手)

「随方毘尼【ずいほうびに】」―――仏法は「その地」に応じて
大聖人は、この御手紙(「月水御書」<御書1202㌻>)の中で、「随方毘尼【ずいほうびに】」(随方随時【ずいじ】毘尼ともいい、仏法の本義にたがわないかぎり、各地域の風俗・習慣や、時代の慣習に反しないようにすべきこと)の戒【かい】について教えられ、”その国・地域等に応じて、仏法を実践していきなさい”と述べられている。

そして、現実の状況や生活、社会を無視した「強義【ごうぎ】」(強硬な教え)を、戒【いまし】められている。たとえば、正座の習慣のない外国のメンバーに「イスはいけない」とか、その他、その国の実情を無視して日本的なやり方、これまでの習慣などを押しつけた人間もいた。大聖人は、こうした「強義」は、「多くの檀那【だんな】を損ずる事あり」(御書1203㌻)――多くの信徒を失ってしまうことがある――と仰せである。

まったく、そのとおりである。「無理」や「強制」で大勢【おおぜい】の人をリードしていけるはずがない。長続きするわけがない。広宣流布どころか、皆、離れていってしまう。結論していえば、すべてにわたって、どこまでも「その国の幸福のため」「その人の幸福のため」に、いちばんよい道を考えてあげるのが、仏法の心である。それが、釈尊の心であり、大聖人の御心なのである。

 

常識のある「柔軟な知恵」にこそ、仏法の光は輝いている。そこに真の「強盛【ごうじょう】な信心」はある。(拍手)(中略)「関西の息吹」「関西の魂」を全国、全世界に伝え広げていってください! きょうは、おおきに!

 

 


コメント

  1. kaisen より:

    10時間唱題達成お疲れ様でした。
    私はうつ病のおかげで長時間の唱題ができませんが、少しずつ唱題しています。
    私も再就職や住居問題、車の買い替えなど色々ありますが確信の唱題で壁を破っていきたいと思います。

  2. レオ より:

    海鮮さんコメントありがとうございます。
    病のなか持続と確信の唱題、素晴らしいですね。
    題目をあげさせてくれる悩みがあることに、御本尊に感謝ですね。
    煩悩即菩提とあるように、お互いに眼前の悩みを大いなる福徳へと転換していきましょう。