一遍の唱題に広大の功徳(2) -10時間唱題(24)

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大誓堂完成10周年の佳日まで75日!

 

朝方など冷たい空気を感じる時がでてきました。未だ暑さが厳しい地域の方には、残暑お見舞い申し上げます。

 

9月1日に10時間唱題をやりきりました。6週連続になるとともに、今年になって10回目となります。午前中は調子が出ませんでしたが、後半はほとんど休みを必要とせず、その日のうちに完了することができました。

 

10時間唱題の記録

 

生命力が湧現し元気が出るのは当然なのですが、同じ姿勢を続けるので体が凝ったり疲れたりしますね。今回は終えた後の一、二日が少し大変でした。それでも、不必要に声を張り上げたりしないよう意識したので、声はかすれなかったです。片目が軽度の緑内障なのですが、眼圧が上がることは大敵なので、唱題でなるべく力まないことは、自分にとっては大事なことです。

 

それではここで先生のご指導を拝しましょう。病気や体調不良の時の勤行についてご指導されたうえで、一遍の題目にも大功徳があることをご指導されています。

 

 

一遍の唱題に広大の功徳 ~「5・3」記念関西ファミリー総会
(創価大学記念講堂/平成5年5月4日/『池田大作 全集 第82巻』から)

信心は一生である。そして三世である。広宣流布も、長い長い旅路である。その「幸福への旅」を、最後まで、どう完走するか。宝の一生の毎日、毎日を、どう価値的に、すがすがしく生きていくか。そこには賢明な「知恵」が必要である。たとえば、だれでも、疲れがたまることがある。体調が悪いときもある。生身の体であれば、当然である。そのようなとき、勤行はどうしたらよいか。唱題は、どう考えればよいのか――。

きょうは皆さまの日ごろの疑問にお答えする意味からも、日蓮大聖人の御言葉を拝し語っておきたい。御書根本の、こういう具体的な指導が大切だからである。結論から申し上げれば、大聖人は「場合に応じて、唱題だけでもよいし、御宝前でやらなくてもよいのですよ」と仰せになっている。
(中略)

不調、疲労の時や深夜は唱題だけでも
なかんずく婦人は、まじめさのあまり、夜遅く、疲れているときや、体調の悪いときでも、完璧に五座三座(注→下欄)をしようとされる場合がある。その信心はあまりにも尊い。必ず御本尊に通じていくであろう。しかし、とくに年輩の婦人は、無理をすると、大きく健康を害してしまう場合がある。体調に応じて、短い唱題だけ、あるいは題目三唱だけで、休んだほうが価値的なことも多い。それを自分自身で判断することである。

一生涯の信心である。仮に五座三座の勤行が完璧にできない場合があったとしても、御本尊を信じ、求めゆく「信心」があれば、福運は消えない。「無理」と「強信【ごうしん】」は違う。大切なのは、一日一日を、はつらつと、希望に燃えて生きていく生命力である。ゆえに、状況によっては、むしろ早く休み、疲れをとって、翌朝、さわやかな気分で勤行をしたほうがよい場合もある。

勤行・唱題は、凡夫の生活のなかで最も荘厳な、御本仏との対面である。自分自身の仏界、胸中の御本尊を開いていく儀式である。ゆえに、すがすがしく、喜びにあふれたものでありたい。終わったら、風呂あがりのように、さっぱりした、というような勤行でありたい。

(大聖人は御書で仰せである。(旧御書1203㌻)病気が重い時や体調が悪い時、女性の生理の時などは)読経【どきょう】はせず、ただ唱題だけでよい。しかも御宝前でなくてもよい、との仰せである。横になったままの場合も考えておられると拝される。このように、大聖人は、形態については、どこまでも柔軟であられた。どこまでも「ただ心こそ大切」(御書1192㌻)なのである。

もちろん、「いいことを聞いた」(爆笑)、「それなら、いつも実践している」(笑い)、などと”利用”してはならない(笑い)。とくに壮年・男子部には、”インチキ性”が強いから気をつけねばならない。(爆笑)あくまでも、勤行・唱題の基本に真摯(しんし)に挑戦することが必要であることは言うまでもない。第一、御書を悪(あ)しく”利用”して仏道修行を怠(おこた)っても、自分が損をするだけである。だれのためでもない、全部、自分自身のための信心である。

随喜から随喜へ――五十展転の大功徳
「ただ唱題だけでもよいのです」――大聖人がそう仰せになる前提には「南無妙法蓮華経の大功徳」があられる。このお手紙の初めには、こう述べられている。

(中略)
法華経の読誦【どくじゅ】にも、いろいろな仕方があります、と。――あるいはまた「一生の間にただ一度(題目を)唱える」、あるいはまた「一生の間にただ一遍、唱える声を聞いて随喜する」、あるいはまた「その随喜する声を聞いて随喜」(する場合があります)。

(中略)
このように(妙法の随喜を人に順々に伝え)五十人に展転して、終わりのほうになれば、その気持ちも薄くなり、随喜の心も弱いことは、ちょうど二、三歳の幼児が頼りないのと同様であり、牛や馬などが後先(あとさき)のことをわきまえないのと同様になりますが(はっきりしなくなりますが)。

(しかし、そうであっても、この五十展転の末の功徳は)他の経を学んでいる人で、機根もすぐれ、智慧がすばらしく、舎利弗や目連、文殊菩薩や弥勒菩薩のような、多くの経典を暗記しておられる人々の御功徳よりも百千万億倍すぐれているのです。これは、経文ならびに天台・妙楽の著【あらわ】した六十巻の書物の中に記されております――。

それほど、題目の功徳はすごいのである(拍手)。ただ一遍、南無妙法蓮華経と唱えても、広大な功徳がある。永遠の功徳がある。これが私たちの信心である。この大確信がなければならない。大聖人は続けて、”仏は、あらゆることをご存じであるが”と断られながら、経文を引いて、こう述べておられる。

――ただ法華経の一字を唱える人の功徳だけは(仏の智慧をもってしても)知ることはできないと説かれています。いかにいわんや私ども逆罪の凡夫がこの(妙法の)功徳を知ることができるでしょうか(否【いな】、決して、計り知れません)――。

題目一遍でも、それほどの大功徳がある。弓矢も名人が放てば、一矢でピシッと的【まと】に当たる。一念の定まった、強く深き祈りは、「一念三千」で、宇宙の一切を動かしていくことであろう。
(続く)

(注意:戸田先生の時代から五座三座が行われていたが(そのうち二座が長行)、2004年9月から朝晩とも方便品・自解偈・唱題のみに簡素化された)

 

 

 


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