逆境は大飛躍のバネに -指導集(27)

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試練の意義


いかなる試練があろうとも、そのなかで苦労を重ね、同志を守り、仏道修行に励み抜いた人は、最後は必ず勝ちます。試練というのは、自分を磨き抜き、大きく飛躍していくためのものなんです。皆さんは、何があっても一喜一憂することなく、”今に見よ!” との一念で、一生成仏の坂道を勇敢に上り抜いていってください。

(新・人間革命第27巻「激闘」から(単行本255㌻))

 

 

障魔や迫害を大飛躍のバネに転換する


彼は、参加者一人ひとりに視線を注いだ。どの顔にも決意が光っていた。
「第七の『疑悔(ぎけ)』は、疑いや後悔です。せっかく信心することができたのに、御本尊を疑い、学会を疑い、難が競い起これば、”信心などしなければよかった” と悔やむ。その暗い、じめじめとした心を打ち破るには、すっきりと腹を決めることです。そこに、歓喜が、大功徳があるんです。

 

(中略)
十軍に関する山本伸一の講義は、いよいよ、第十の「自高蔑人(じこうべつにん)」となった。「これは、自ら驕(おご)り高ぶり、人を卑しむことです。つまり、慢心です。慢心になると、誰の言うことも聞かず、学会の組織にしっかりついて、謙虚に仏法を学ぶことができなくなる。また、周囲も次第に敬遠し、誤りを指摘してくれる人もいなくなってしまう。社会的に高い地位を得た人ほど、この魔にたぶらかされてしまいがちなんです。

 

『自高蔑人』の心をもつと、みんなが褒め讃えてくれれば、学会活動にも参加するが、機嫌を取ってくれる人がいないと、仏道修行を怠ってしまう。したがって、宿命転換も、境涯革命もできず、福運も尽きていきます。そして、結局は、誰からも相手にされなくなってしまう。最後は惨めです。

 

信心の世界、仏道修行の世界は、一流企業の社長であろうが、高級官僚であろうが、大学教授であろうが、あるいは、学会の最高幹部であろうが、皆、平等なんです。地位も、名誉も、関係ありません。信心の実証を示すために、社会で成功を収めていくことは大事です。しかし、それが、名聞名利のためであれば、信心のうえでは、なんの意味もありません。地位や名誉は、絶対的幸福の条件でもなければ、成仏を決するものでもありません。

 

信心の世界では、一生懸命にお題目を唱え、たくさんの人を折伏し、誰よりも個人指導に励み、多くの人材を育ててきた方が偉いんです。広宣流布のため、仏子のために、黙々と汗を流してきた方が尊いんです。信心の王者こそ、人間王者なんです。最高最大に御本仏から賞讃される大福運、大勝利の人であることを確信してください」

 

熱のこもった講義であった。一人として魔に敗れ、退転していく人など出すまいとする、伸一の魂の叫びであった。研修は、まだ終わらなかった。「では、『富木殿御返事』、御書の962ページを開いてください」 ここに、『但(ただ)生涯本(しょうがい・もと)より思い切て候今に飜返(ひるがえ)ること無く其の上又違恨(そのうえ・また・いこん)無し諸の悪人は又善知識なり』とあります。この御文を生命に刻んでいただきたい。これを心肝に染めていくならば、何があろうが、信心を貫き通していくことができる。

 

戸田先生が第二代会長に就任された27年前、学会の会員は、実質3000人ほどにすぎなかった。それが、今では、世界に広がり、約一千万人の同志が誕生したんです。会館も立派な大文化会館が、全国各地に陸続と誕生しました。皆が歓喜に燃えて、弘教に走っています。これだけ広宣流布が進んだんですから、第六天の魔王が憤怒(ふんぬ)に燃えて、競い起こってくるのは当然です。予想もしなかった大難もあるでしょう。大事なことは、敢然と、それを受けて立つ覚悟です。

 

大聖人は、『但生涯本より思い切て候』と言われた。題目を唱え始めた時から、大難の人生であることを覚悟されていたんです。そして、その覚悟は『今に飜返ること無く』と仰せのように、竜の口の法難、そして佐渡流罪という最大の難局に際しても、決して揺らぐことはなかった。覚悟は、生涯、持続されてこそ、本当の覚悟なんです。その場限りの、勢いまかせの決意など、法螺(ほら)を吹いているにすぎません。

 

そして、『遺恨無(いこん・な)し』と明言されている。大聖人は、『世間の失一分(とが・いちぶん)もなし』(御書958㌻)と仰せのように、本来、社会的にはなんの罪も犯していない。それなのに弾圧され、迫害されることは不当であり、普通ならば、恨みをもつのが当たり前です。しかし、『遺恨無し』と言われるのは、正法を流布したがゆえに、経文に照らし、仏法の法理通りに、起こるべくして起こった難だからです。むしろ喜びとされているんです。

 

次の『諸の悪人は又善知識なり』(御書962㌻)の御文も、非常に大事です。善知識というのは、仏道修行を支え、助けてくれる存在です。しかし、日蓮大聖人は、諸の悪人、すなわち仏法者を迫害し、信心を妨げる働きをなす悪知識を、御自身にとって、善知識であると言われている。

 

なぜか――。諸の悪人による迫害に遭うことによって、法華経の行者であることが立証できるからです。風があってこそ、風車が回るように、迫害あってこそ、悪業を転換し、一生成仏することができる。難が競い起これば起こるほど、強盛に信心を燃え上がらせていくならば、悪知識も、すべて善知識へと変えていくことができる。むしろ、それが、真実の信仰の姿です。

 

反対に、学会の先輩が成長を願って、誤りを指摘してくれたにもかかわらず、恨みをいだき、退転していく人もいます。その人にとっては善知識となるべきものが、結果的に悪知識と同じ働きをしてしまうことになる。善知識にするのも、悪知識にするのも、最終的には本人の信心なんです。ゆえに、弾圧、迫害も、信心の大飛躍のバネにすることができる。つまり、どんな逆境に遭遇しても、それが、そのまま魔になるわけではない。どう受けとめるかで、一念次第で、魔にもなれば、信心向上の力にもなっていくんです。

 

どうか、第六天の魔王が率いる十軍という己心の魔に打ち勝ってください。この魔を打ち破る力は唱題です。生命の根本的な迷い、すなわち無明を断ち切ることができるのは、南無妙法蓮華経の利剣です。どこまでも、唱題第一に戦おうではありませんか!

 

伸一は、集った人たちの魂を揺さぶる思いで、語り抜いた。叫び抜いた。訴え抜いた。全生命を振り絞っての指導であった。彼は、広布第二章の大飛躍を期すために、全会員が、真(まこと)の信仰に立ち返り、いかなる障魔の嵐にも翻弄されることなく、信心の正道を歩み抜いてほしかったのである。

(新・人間革命第27巻「激闘」から(単行本264㌻))

 

 

ひと言感想


信心の途上で起きる障魔も迫害も人生のあらゆる逆境も、自身の強盛な信心さえあれば、自己を磨き抜く契機にすることができ、大飛躍・大成長のバネにできる。自身の信心さえ揺るがなければ、悪知識さえも善知識に変えていける。つくづく凄いご指導だと思います。

 

魔を魔と見抜き打ち破っていくためには、仏の智慧を借りるしかありません。いかなる最先端の科学技術等でもそれは不可能です。十界のうち二乗やそれ以下の智慧では到底、魔の正体を見抜くことさえ無理です。あらゆる逆境を乗り越える力の源泉となるとともに、万人の宿命転換を可能とし、所願満足のこれ以上ない幸福な人生を実現していく、無限大の力が創価学会の御本尊には備わっているのです。改めて、眼前の法戦に勝利し、自分らしい幸福の実証を示してまいります。

 

 


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