戒壇の御本尊は受持の対象としない

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いつまでたっても、戒壇の大御本尊を振りかざすしか出来ない輩である。「学会には無いが宗門にはある。だから俺たちに従え」との、ステレオタイプの主張を繰り返している。

 

日蓮大聖人がなぜ御本尊を顕したのかという大事なことを、全く理解しようとしない。それは一切衆生を成仏させる(=幸福にする)ためである。仏と同じ境涯にするためである。

 

それは言い換えれば、御本尊を受持した人が、人間革命と広宣流布を目指し真剣に実践するということである。御本尊の無限の仏力・法力は、あくまで受持する者の信力・行力の強弱に応じて現れるからだ。

 

仮にどれだけ立派な御本尊を所有していたとしても、御書の通り実践しないどころか、広布を破壊しようと謗法に謗法を重ね、大聖人のお心を踏みにじっているのが、現在の宗門・日顕宗なのだ。

 

真実の信心と実践の欠片(かけら)も無く、供養を貪る卑しい根性と、先生と学会への嫉妬に身を焼く正体をひた隠しにして、やることといえば、ただ大御本尊を振りかざすだけで、人々を地獄へ堕とす極悪の使いなのである。決して騙されてはならない。それでは、戒壇の大御本尊に対する、創価学会の公式見解を改めて学ぼう。

 

 

●「創価学会会則 教義条項」の改正について/原田会長(2014年11月8日付聖教)

大聖人の仏法は、万人に開かれたものであり、三大秘法はあくまで一人一人の信仰において受け止められなければなりません。

ある場所に特定の戒壇があり、そこに安置する御本尊が根本の御本尊で、その他の御本尊はそれにつながらなければ力用が発揮されないという、あたかも ”電源と端子”の関係であるかのような本尊観は、世界広宣流布が事実の上で伸展している現在と将来において、かえって世界広布を阻害(そがい)するものとなりかねないのであります。

(中略)
御本尊の力用は、自行化他の実践があるところに発揮されるのであります。大聖人の御本尊は、「法華弘通のはたじるし」(御書 全1243㌻)、すなわち民衆救済のための御本尊であり、広宣流布のための御本尊であります。御本尊は広宣流布の誓願、信心で拝してこそ御本尊の力用が発揮されます。

創価学会は、大聖人の御遺命である広宣流布を実現するために、宗門と僧俗和合し、弘安2年の御本尊を信受してきました。しかし、宗門はいつしか堕落し、衣の権威を笠に着て信者を蔑視(べっし)し、創価学会を破門する暴挙に出ました。さらに法主詐称者の出現によって、永遠に法主が不在となり、宗門のいう法主の血脈なるものも断絶しました。大石寺はすでに大謗法の地と化し、世界広宣流布を目指す創価学会とは全く無関係の存在となったのであります。

(中略)
創価学会は、大聖人の御遺命の世界広宣流布を推進する仏意仏勅の教団であるとの自覚に立ち、その責任において広宣流布のための御本尊を認定します。したがって、会則の教義条項にいう「御本尊」とは創価学会が受持の対象として認定した御本尊であり、大謗法の地にある弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません。世界広宣流布新時代の時を迎えた今、このことを明確にしておきたいと思います。

 

 

広宣流布の誓願、信心で拝してこそ御本尊の力用は発揮される。


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