御本尊は宗門の人間たちの私利私欲を満たすためにあるのではない。
御本尊は世界の民衆を救うためにこそあるのである。
「一閻浮提総与の御本尊」と言われるゆえんである。
自分たちに人々を従わせるためだけに、大御本尊を利用する心は、「第六天の魔王」の心である。
御本尊をただ単に「所有」することと、「信心でたもつ」ことは明確に異なる。
そもそも御本尊は日蓮大聖人から「法華弘通の旗印」としてお預かりしているのであって、単なる所有物ではない。
ましてや、供養収奪のため信徒支配のために悪用しようとするなら、大罰こそあっても功徳は一切無い。
魔王にいいだけ利用されて、使い捨てられるだけである。
日顕宗の人間は学会を否定しようと、謗法の限りを尽くして悪口を言ってくるが、不思議なことに大聖人の御書を引いての論証はほとんど皆無である。
破門通告書にも、御書の一編も引用されていなかった。
自分勝手な感情に基づく一方的な主張だから、当然と言えば当然である。
御書に裏付けされた主張でないことが、明白である。
また、それだけ徹底して学会を否定するなら、今まで学会が赤誠の限りを尽くして建立寄進してきた350以上の寺院から、直ちに出ていけばよいのである。
大石寺内にもどれだけの大坊等を寄進してきたことか。
のうのうと居座っておいて、感謝のカケラも無い、不知恩の畜生以下の輩たちなのである。
こんな極悪人たちに騙されてはいけない、哀れな人間たちなのである。
ただ法のため民衆のため社会のためという「不自惜身命」の信心で拝してこそ、御本尊の汲めども尽きぬ力が滾々【こんこん】と涌現する。
反対に、不惜の心で御本尊を弘通し抜いてきた、和合僧団たる学会に敵対した日顕宗は、大聖人が御本尊を建立したお心に、根本から背く「破和合僧」の集団なのである。
したがって言葉の真の意味で「大御本尊を捨てた」のは、日顕宗・宗門に他ならない。
反対に、命を懸けて御本尊を大事に護持し弘め抜いてきた学会こそ、この世で最も「御本尊を大事にしてきた」団体でなのである。
これからも学会は微動だにしない。
仏意仏勅の団体として、世界の全民衆を幸福にするために、縦横無尽に戦い切っていく。
(平26.12.9 一部、修正しました)
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