「人間のための宗教」こそ正道 -2月闘争の淵源(2)

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わが大闘争の歴史は「大福運」の歴史(続き)

 

「権威主義的宗教」か「人道主義的宗教」か
20世紀の最も著名な社会心理学者の一人に、ドイツのエーリッヒ・フロム(1900〜1980年)がいる。フロムは、精神分析の観点から宗教を二つに分類している。その内容を概略、お伝えしたい。それは、すなわち「権威主義的宗教」と「人道主義的宗教」である。フロムは、この分類こそ宗教を分類するうえで、最も重要であるという。では、「権威主義的宗教」とは何か。フロムは、次のような特徴を挙げている。

 

(1)「人間を超えた力」が、人間に礼拝を強要する権利をもち、「畏敬」と「服従」を捧げないことが罪になる。
(2)したがって、この宗教では、「服従」が最高の善行であり、「不服従」は根本的な罪である。
(3)「全知全能の存在」に対し、人間は無力で、卑しいものと考えられる。
(4)人間は ”完全な屈服” によって、「畏敬を起こさせる力」(全知全能の存在)の一部となり、その力によって守られていると感じる。しかし、そこでは、人間は個人の「独立」と「誠実」を失ってしまうのである。

 

さらに、「権威主義的宗教」では、個人の生活は無意味なものとなり、人間の価値は「自分の価値と強さを否定する」ところにあるとされる。そして、現実の生活からかけ離れた、抽象的な理想を求めるというのである。つまり、「権威主義的宗教」では、人間は無視され、おとしめられ、否定される。そこに特徴がある。

 

一方、「人道主義的宗教」の特徴は何か
フロムは言う。「人道主義的宗教は、『人間自身』と『人間の力』とに集中する」と。人間は理性の力を発揮し、自分自身を知り、生きとし生けるものの尊厳を知るべきなのだ、と。 「人道主義的宗教」では、人間の目的は「自分の無力さを知る」ことではなく、「自分の力を十分に伸ばす」ことにある。服従することではなく、自己実現──自分を十分に開放し開花させることにある。

 

ここでは、信仰とは、「盲信し、従うこと」ではない。自身の思想と体験を基礎とした「確かな信念」なのである。つまり、「人道主義的宗教」では、”主役” はあくまでも「人間」である。「人間」こそ、最も尊い──ここに「権威主義的宗教」との鮮やかなコントラスト(対比、対照)がある。さらに、フロムは、この二つの宗教の違いを端的に語っている。すなわち、「権威主義的宗教」では、人間は悲哀と罪悪感にさいなまれる。一方、「人道主義的宗教」では、人間は喜びに満たされる──と。

 

では、この二つの違いは、どこから生まれるのか。フロムはこう分析する。それは “教え”の違いにあるというよりも、むしろ教えに関する “人間の態度” の違いにあるのだ、と。 「権威の宗教」と「人道の宗教」──その差を生むのは、ほかならぬ人間自身だというのである。もちろんフロムは ”教え” の正邪そのものを問題にしていない。ただ、その分析は、「宗教と人間」を考えるうえで、重要な視点を与えているといえよう。

 

「人間のための宗教」か、「宗教のための人間」か。学会は、大聖人の御精神のままに、「人間のための宗教」の正道を、世界に開いてきた。仏法の「人間主義」の光で、悪しき宗教の闇から人間を解放してきた。これに対して、権威と権力で抑圧し、ひたすら一方的な「服従」を迫る日顕宗の体質──まさに「権威主義的宗教」の典型であろう。

 

(中略)
私どもは、「権威の宗教」から「人道の宗教」「人間のための宗教」へ、歴史の流れを転換している。新しき「宗教の改革者」「精神の改革者」である。朝に、そして夕べに、妙法という大宇宙のリズムを呼吸しながら、一日一日、偉大なる宗教革命の歴史を刻んでまいりたい。

 

 

 


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