難はまやかしの信仰者を淘汰し、獅子をつくる -指導集(18)

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座談会の再開、本当によかったですね。まだ感染対策に気を抜けませんが、地区の同志の皆さんに会うことができ喜びで一杯になりました。90周年の下半期大勝利していきます!

先日、新人間革命第7巻を読了しましたので、この巻末と第8巻冒頭から心に刻みたい部分を、備忘録を兼ねて紹介します。


●新・人間革命 第7巻「操舵」の章から

戸田はそれから、強い口調で言った。
今回のこと(=大阪事件での不当逮捕)は、君の人生にとっては、予行演習のようなものだ。やがて将来、権力は魔性の牙をむいて、本格的に襲いかかってくるにちがいない。弾圧は、決して戦時中の昔の話ではないよ。確かに、戦後、日本は民主主義の国家になった。私や牧口先生を逮捕するのに使った、不敬罪や治安維持法もなくなった。そして、信教の自由も保障されるようになった。しかし、権力のもつ、魔性の本質は何も変わっていない。それだけに、より巧妙な手口で、弾圧することになる。それが、いつ起こるかはわからないが、学会がもっと社会的にも力をつけ、飛躍的に発展した時が危ないぞ。権力にとっても、存亡をかけた攻防戦だけに、学会を封じ込めるために、なりふり構わず、卑劣な攻撃を仕掛けてくるだろう。その時は、君が狙われることになる。覚悟しておくことだ。

(中略)
私が政界に弟子たちを送り出したのは、この日本にあっては、政治を民衆の手に取り戻さなければ、人びとの幸福の実現も難しいと考えたからだ。現実に社会の建設に立ち上がれば、弾圧が始まることはよくわかっていた。水面に石を投げれば、波が立つようなものだ。しかし、社会の不幸に目をつぶり、宗教の世界に閉じこもり、安穏として、ただ題目を唱えているだけだとしたら、大聖人の立正安国の御精神に反する。この世の悲惨をなくし、不幸をなくし、人権を、人間の尊厳を守り、平和な社会を築いていくなかにこそ仏法の実践がある。

それを断行するならば、当然、難が競い起こる。しかし、そんなことを恐れていたのでは、仏法者の本当の使命を果たすことはできない。それに、われわれが宿業を転換し、一生成仏していくためには、法難にあい、障魔と戦って勝つしかないのだ。だから私は、社会の建設に向かって舵を取った。障魔を、三類の強敵を呼び出したのだ。日蓮大聖人は『今の世間を見るに人をよくなすものはかたうどよりも強敵が人をば・よくなしけるなり』(御書917㌻)と仰せだ。広宣流布を破壊しようとする大悪人と、また、魔性の権力と戦い、勝てば、成仏することができる。ゆえに大聖人は、方人、つまり味方よりも、強敵が人をよくすると言われているのだ。大難の時に、勇気を奮い起こして戦えば、人は強くなる。獅子になる!」 

(中略)
そして、戸田は、伸一の眼を、じっと見すえて言った。
「仏法者として、人類の平和と幸福のために行動を起こせば、必ず障魔が競い起こる。大難が起こる。しかし、伸一、勇気をもって進め。生涯、あえて、難を呼び起こし続けていくのだ。君が先頭となり、大難と戦うことで、君だけでなく、本末究竟して、みんなの一生成仏の道が開かれることになる。また、難が起これば、人間の真価がわかるし、一人ひとりの信心の真偽も明らかになる。そして、学会を利用しようとしていた者や、臆病者は去っていく。難はまやかしの信仰者を淘汰し、獅子をつくる。それでよいのだ

(中略)
戸田城聖の祥月命日である4月2日、東京・品川区の聖教新聞社別館で、六回忌法要が行われた。戸田逝いて5年、学会は既に会員330万世帯に達していた。それは、ただひたすら師の構想を実現せんとする伸一とともに、同志が心を一つにして戦い抜いた、師弟の精神の結晶といえる。伸一は、毎年この日に、戸田に”勝利”の報告をすることを、自らの義務としていた。いかに苦戦を強いられようとも、必ずなんらかの勝利の実証をもって、法要の席に馳せ参じることが、弟子の道であると、彼は決めていたのである。

戸田は、口先だけの決意の人間を、絶対に信用しなかった。最も厳しく弾呵した。「ハッタリ屋」「ペテン師」「イカサマ師」と言って憚らなかった。たとえ、草の根を噛み、岩盤に爪を立てても、前へ進み、勝って、誓いを果たし抜いてこそ、”獅子”であるというのが、戸田の指導であった。それは広宣流布の責任の重さを、弟子たちに教えようとする、師の慈愛でもあった。伸一は、法要の読経・唱題のなか、来年の七回忌には、さらに広宣流布の流れを広げ、再び大前進の「証」をもって、戸田のもとに集う決意を強く固めていた。

(中略)
「なに、(台湾 台北支部は)解散させられることになったのか! かわいそうだ……」

伸一は、こう言って絶句した。しかし、しばらくすると、強い決意のこもった口調で語り始めた。「これは、仏法の目から見れば、台湾のメンバーの信心が本物になった証拠といえる。御書には『行解既に勤めぬれば三障・四魔・紛然として競い起る』(916ページ)と仰せじゃないか。難があるからこそ正法なんだ。難を受けるからこそ一生成仏ができるんだ。法律は法律として従わなくてはならないから、組織は解散するにしても、絶対に、信心までも失ってはならない。台湾でも、信教の自由は認められているのだから、いくらでも信心は貫ける。

大聖人は、『王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず』(御書287ページ)と言われている。王の支配する国に生まれたから、身は従えられているようであるが、心まで従えられているのではないぞという、精神の自由の大宣言だよ。台湾の同志も、この心意気でいくんだ。どんな力をもってしても、本来、人間の信仰を奪うことなんかできない。自分の心を支配しているのは自分自身だからだ。したがって、退転する人は、外圧によって退転していくというより、外圧を恐れて臆病になり、自ら信心を捨ててしまっているといえる

(中略)
(その後、台湾では)「信心をするなら牢獄にぶち込むぞ!」と、脅された人もいた。また、信心をしていることがわかると、会社では昇進することはなかったし、左遷されたり、解雇されることさえあった。個人の信仰の自由は認められていたが、解散後は、事実上、それさえも奪われたに等しかった。この試練は、それぞれの信仰が、ホンモノなのか、ニセモノなのかを明らかにしていった。名聞名利の心をいだいて信心をしていた者は、迫害を恐れて、次々と退転していったのである。しかし、台北支部長であった朱千尋をはじめとする真正の同志は、苦難を誉れとして、獅子となって立ち上がった。

 

●新・人間革命 第8巻「布陣」の章から

伸一の会長就任以来、学会は上昇に次ぐ上昇を重ね、大発展していることは間違いなかった。それだけに、次の飛翔のためには、更に、各地に本部、総支部の布陣を整え、組織の強化を図る必要があることはわかっていた。しかし、伸一は、もっと重要な課題があることを痛感していた。
それは、殉難をも恐れず、民衆の幸福と人類の平和に生涯を捧げた、先師牧口常三郎と恩師戸田城聖の精神を、いかにして永遠のものにしていくかということであった。

彼は、学会が発展するにつれて、幹部のなかに、その精神が希薄になっていきつつあることに、憂慮を覚えたのである。たとえば、学会のため、広宣流布のために、自分が何をするのかではなく、できあがった組織の上に乗っかり、学会に何かしてもらうことを期待する幹部が出始めていることを、彼は感じとっていた。

また、学会のなかで、より高い役職につくことが、立身出世であるかのように勘違いし、いわゆる”偉くなる”ことに執心(しゅうしん)し、人事のたびごとに一喜一憂している者もいた。名聞名利の心をいだき、自分のために学会を利用しようとするような者が幹部になれば、会員が不幸である。やがては、学会自体が蝕まれ、内部から崩壊していく要因となることは必定である。伸一は、未来の大発展のために、この兆候の根を断ち、まず幹部の胸中に、学会精神をみなぎらせることから始めようと、密かに決意したのである。

(令和2.9.25加筆)

 

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コメント

  1. 虎キチ より:

    レオさん、お久しぶりです。
    随分しびれる部分を引用していただきましたね。

    新・人間革命第5巻 歓喜の章にも
    「前途には、創造を絶する大難が待ち受けていよう。
    それも”民主”の仮面を被り、巧妙に世論を操作しての弾圧となるにちがいない。」
    とありますね。

    これはまだ現れてないですね。創立100周年までには出現するんでしょうか。
    私はこの時になって、無関係なふりをするんではなく
    聖教新聞購読者だ、山本伸一ファンだと公言できる自分でありたいです。

    今日の世界青年部総会、楽しみにしています。

  2. Leo2014 より:

    虎キチさんお久し振りです。お元気のようで何よりです。聖教のご購読を頂いているようで、深く感謝申し上げます。ありがとうございます。

    難を乗り越えてこそ誠の信仰者であるとの主旨の記事でしたが、大難の方に関心をお持ちになったのですね。大難はそんな大きなものを待たなくとも、虎キチさん自らが信心で立ち1人に折伏し幸福にすれば、必ず大難を体験できますよ。

    そこを乗り越えれば、境涯が確実に広がり微動だにしない自己が築かれます。少し長い目で見ればこんな得なことはないです。

    創価の信心は何も難しい理屈は必要ないんです。一時的に功徳が無かろうと迫害に遭おうと、どんな苦境に立たされたとしても、御本尊を離さないこと、学会から退転しないことなんです。この「難を乗り越える信心」さえ貫ければ、汲めども尽きぬ功徳も福運も、後から必ずついてきます。

    反対に臆病に捉われて進めない人には、一切の功徳(冥益)が閉ざされます。「法界三千を秘妙とは云うなり秘とはきびしきなり三千羅列なり是より外に不思議之無し」(御義口伝714㌻)とある通りです。

    ご紹介頂いた新人革の部分は、「言論問題」や山友、宗門の画策、「四月会」等の政治権力による謀略の数々がそうでしたね。大難の度に学会は屈することなく団結し、飛躍的に発展してきました。

    世界青年部総会よかったですね。お陰で歓喜して、何軒も友人との対話に打って出られました。重ねて虎キチさん、啓発を与えてくれる良き問いかけをありがとうございました。
    (長文になってしまいました。ご容赦を)