夕張炭労事件55周年(1)

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1.熊隊について

夕張地区発展の大きな力として「熊隊」と言われるグループがあった。
中心メンバーは夕張の壮年、婦人、男子、女子の中から選抜して編成され、地方へも、どしどし出かけて活発な指導とともに折伏活動を実践した。

「熊隊」には司令がいて、一つの企画、日程が決定すると、司令は隊員に召集をかけた。
しかし、電話のある家はほぼゼロに等しかったため、連絡はもっぱら青年部員の足によった。
この「熊伝」と言われた青年たちは、いっせいに熊隊の隊員宅に手分けして周り、「召集令状」と言われた縦12、幅4センチほどの紙片を置いて行く。
それには、ただ「○月○日○時集合」とだけ書かれ、丸に「熊」の朱印が押されていて、隊員は仕事から帰ってこの令状を発見し、指定の時間に司令の家に集合するといった具合であった。
戦時中の召集令状は人を殺すためであったが、熊隊の「召集令状」は、人々を蘇生させ、真に平和な世界を現出するための令状であった。

北海道は熊の名所だけあって、折伏隊にまで熊の名を冠したのである。
熊隊の機能は、隊員それぞれの得手、不得手によって分かれていた。
――まず何度折伏に行っても埒【らち】のあかない手ごわい人のところには、折伏に熟達した人々が向けられた。この隊員を「熊特」【くまとく】と言った。
また退転しかかった人や新入信者の所へ指導に行ったり、またこの頃始まった組合の圧力に怯【おび】えている人々を激励して、学会活動に復帰させることを使命とする隊員を「熊指」【くまし】と言った。
折伏を行ずる本隊の隊員を「熊折」【くましゃく】と言い、深く潜行して折伏を進める隊員を「熊潜」【くません】と言った。
これらの隊員の緊密な連絡に活躍する青年が「熊伝」【くまでん】であった。

この熊隊を中心にして、夕張の会員たちは休日を利用して周辺の町に出かけた。
時には数十人の会員が朝早く駅に集合して汽車に乗り込み、4、5人のグループに分かれて、まるで「落下傘部隊」のように、各駅に到着するごとに順々に降りていって、その町で折伏を行ずる。

参加メンバーは、たまの休日をさいての弘教活動を生きがいとしている人々であった。
眠い顔をした人もいれば、握り飯をたくさん作って持ってきた女子部員や、汽車賃に小遣いをためて参加した婦人部員もいた。
しわだらけの服に折伏経典と聖教新聞を握りしめている青年、グループ分けに心をくばる年配者など、決して豊かな服装をした者は一人としていなかったが、互いの朝のあいさつは極めて元気よく、遠足に向かう小学生のようにはしゃいでいた。

丸一日活動した各グループは、帰りは終列車と決まっていた。
朝とは反対に、駅ごとに乗り込んでくる隊員たちで、列車の中は、駅ごとに大変な賑わいになる。
一日の戦果が問題となった。
「どうだった?」
「やった、やった。ずいぶん手強い相手だったけれど、最後にはよくわかって、涙を流しながら謗法払いをやりました。神札がたいへんだった」

聞く方も、話す方も嬉しいのである。
一人、また一人と、その人を宿命のカセから救うということが、こんなにも深い歓喜を起こすものだとは、思わなかった。
彼らの暗い日常の中にあっては、唯一の手ごたえのある生きがいであった。

「熊隊」を中心に、弘教戦線はみるみる拡大し、北海道全域に広がっていった。
この夕張の地に一粒種から始まった地涌の陣列は、5年を経ずして2500世帯を突破していたのである。
それだけに、夕張地区に襲いかかった魔も大きかったと言わなければならない。
当時の夕張の人々が好んで口にした「行解すでに勤めぬれば、三障四魔紛然として競い起る」の通り、炭労事件という障魔の火種が、この山中にさかっていたのである。

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