試練 -祈りが完璧に叶った時(1)

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池田先生との出会いをメインテーマに、体験を述べさせて頂きます。少し、前おきが続きますが、最後までお付き合い頂ければと思います。

 


 

試練

小学高学年から信心を休んでいたのですが、勉強はそこそこ出来ました。上の学校に行きたいとの望みが叶い高専の電気工学科に、希望に燃えて入学しました。そのころ、男子部や壮年部の学会員何人かの方が、何十回も来てくれました。その度に、「宗教に興味は無いです」と言って追い返していました。今振り返ると不思議なもので、断れば断るほど、あらゆる面で行き詰っていきました。

 

最も大変な時には登校拒否に陥り、今にして思えば恥ずかしいですが、押し入れの屋根裏に隠れて母親をやり過ごし、学校に行かなかった時がありました。同級生の会話が自分と別世界のように思えて、孤独で学校に行くのが嫌でたまらなかったのです。エンジニア養成の国立短大ですから、授業の多くは5人位のグループになって、開けても暮れても実験の繰り返しでした。

 

ところが1回2時間の実験の間、同級生は手際よく連携して作業を進めていきますが、自分はほとんどひと言も発せず手も出せず、2時間ジーっとしたままです。ひとこと何か言っても誰もまともには聞きません。灼熱も八寒もなかったですが、心は地獄の囚人のようでした。そんな日が5年も続くと思うと絶望感しかありません。そんなですから、勉強のコツも解らず、赤点を何度かとっていました。

 

留年となり、学校を辞める辞めないで、担任教官と話し合いを持ちました。しかし、何とか踏みとどまり、最終学年で信心に復活することができたのです。勤行を壮年B長に1ヵ月みっちり教わるとともに、夏休み人間革命全巻を10日間で読み、感動でゾクゾクして夜なかなか寝付けないこともありました。全国学生部大会があり東京武道館に行ったのもこの頃です。その連絡は、なんと行く3日前に来たのでした。全国から1万人以上の学生部が集い、その熱気に、学会の底力を腹の底から感じました。

 

信心の喜びを同級生や教官にまで語っていき、その功徳で、いつしか実験やその他でもリーダー的な存在に変わりました。成績もAクラスで卒業、世界でも有名な外資系I会社の日本法人(略記しています)に就職を果たすことができました。同級生25人に全国500社から求人が来たのですが、給与、知名度、福利厚生全てにおいて、最高の待遇でした。今思えばこれは初信の功徳でした。

 

今から70年以上前に大型コンピューターを開発・販売し、世界のコンピュータ業界を牽引してきた会社です。あのビル・ゲイツでさえ、駆け出しの頃はI会社から仕事をもらって、Windowsの前身にあたるオペレーティング・システム(MS-DOS)を作ったそうです。ちなみに自分はMS-DOSの前身に当たる、8ビットOSのCP/Mを高専の卒業研究で扱いました。

 

自分なりに寝る間も惜しんで働き、学会活動にも励みました。最も大変な時は深夜までの残業で、1週間の睡眠が合計7時間という時がありました。ところが、休日に同僚などを仏法対話に回って歩いたことが、課や部内において大批判を受けます。同僚からは勤務中に陰湿な嫌がらせ・いじめを受け、上司からは同僚に対する布教活動を止めるよう注意を受けました。信心のことで周りの人から、あれほど批判・迫害を受けたのは、私の人生で初めての経験でした。同僚達には、学会活動が自分のみならず、会社にも福運をつけるということが、到底理解できなかったのでしょう。

 

ちょうどこの頃、別な会社に就職した高専の同級生に御本尊流布が出来たのです。実は心の奥底では「何としても折伏をする!」との強い思いがあり、徹して戦い抜いており、それが結実したのです。しかし、無理に無理を重ねたのと、自分の過去世の宿業が出たのでしょう、本流を決めて3か月後、メンタル疾患となってしまいます。折伏を決めたことで三障四魔が競い起こったのでした。

 

こうして、やむなく神奈川から北海道に戻り、やがて精神科に入院しました。病院までの雪道を車で片道3時間以上、青年部長が母も乗せ運転してくれました。苦労してやっと折伏を決めたとの思いがあった自分は、青年部長に言いました。

 

自分「折伏を決めて、僕が本当に行きたいのは夏期講習会です。病院なんかじゃない」

青年部長「この入院が、君にとっての夏期講習会だと思うことだよ」

 

夏期講習会へ行きたいとの真意は、「先生にお会いしたい」との意味で言ったつもりでした。未だ25歳の青年ということもあり、この時ほど、悔しく悲しい思いをしたことはありませんでした。

(つづく)

 

試練

 

 

 

 


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