貧乏の鉄鎖を切る(8)

 戸田城聖先生 質問会集から抜粋
~経済的問題とその答えだけを抜粋しました(つづき)

 

経済的悩みが大きくなった

[質問] 経済的な悩みで信心して二年になりますが、だんだんその悩みが大きくなっている状態です。

[答] 四十歳ぐらいで、商売を熱心にやっていればだいじょうぶです。金はもうかるようになります。しかし、あまり若いうちから、金はできないほうがいいでしょう。五十ぐらいからでどうですか。このなかに、経済的に悩んでいる人もあろうと思うから、私の体験を一応話しておきましょう。

私はヒバリのような運勢といわれているのです。それは、貧乏すると、どこへもぐったかわからないほど貧乏をしてしまう。それからひとたび景気がよくなると、どこまであがっていくかわからないのです。ですから友人は、私のことをヒバリというのです。
四十四のとき、牢へはいる前ですが、昭和十八年です、そのとき六百万円もっていました。どうやってできたか自分におぼえがないのです。それが牢から帰ってきたら、借金が二百何十万残っているのです。

それを返し、そうとう財産をつくってから謗法をしたのです。私が天台流の講義をやったのです。それは、私が会長にならなければならない宿命なのです。だが、会長になるのがいやでたまらなかったのです。会長にならないというと、身は日蓮大聖人の弟子でありながら、講義は天台流の講義をしたのでは、心は天台の弟子です。それは大謗法です。自分の謗法というのは気がつかないものです。それでえらい損をしました。

それで私は、昭和二十六年、会長になりました。それから、天台流の講義は絶対にいたしません。おかげで、どうやら金では今日は困りません。だから戸田は、創価学会をやっているから、私たちの寄付でのんきにやっているから、そんなことがいえるのだろうと疑ってはなりません。それはあなた方のほうから一銭ももらってはいません。ぼくに金をくれたという人がいたら出てごらんなさい。それは、あそこへ普請【ふしん】している大講堂の御供養のお金はもらっています。だが私がもらっているのではありません。あの建物がもらったのです。

私がどうにかなったのは、五十二からです。四十四のとき、六百万ももったとき、たいてい五十から財産ができると人は話しているが、私は頭がいいから、人より十年早いのだと、いばっていたのです。ところが、パッとなくなってしまったのです。五十を越してからどうにかできてきました。だから、そうあわてる必要はありません。

それから、いま、あなたのことばをきいていると、ひょっとすると、利息を払っている金を借りているのではないかと思うのですが、利息を払うということはこわいことです。
「だいぶ利息をとったから、元金を利息でとったから、おまえの借金はまけてやる」という人は、どこにもいないのです。だから、もしあなたが借金をして、利息を払っているのなら、そこを打ち勝たなければならないのです。これがいちばんの根本の問題です。このような場合、利息を払う人があるものですか。だから利息など払わないようにと考えるのです。これは大事なことです。

しかし、銀行の利息くらいは、払ってもよい。二銭か、二銭一厘の利息を払って、商売をやれないようなものなら、商売をやらないほうがいいです。ところが、まぬけな人は、日歩十銭だとか十五銭だとかいう利息を払うのです。そんなものを払って、商売などできるものですか。日歩十五銭とすると、年にして六割、月にすると五分ぐらいです。そんな金を払って商売などやれるわけがありません。

ですから、いまの人が二年半も信心して、だんだん重苦しくなってきたというのは、手形をだして、たくさん利息を払っているのでしょう。それをやめるのです。二年も三年も信心していて、金ができないというのは、たいてい高利を払っているのです。このなかにも、そういう人がいるのではないですか。断じて高利など払ってはなりません。それをどうしたら払わないですむかということを考えるのです。そうして、そこからのがれれば、いやでもおうでも、謗法さえなければ、商売は一生懸命になるし、金はできるに決まっています。ところが、いくらもうけても、高い利息を払ったらどうにもなりません。それで、不熱心はだめです。

折伏だ折伏だといって、商売もしないで、折伏に歩いている人がいるのです。このなかには、そのような人はいないでしょうね。折伏はすべきである。しかし商売を放ってまですべきではありません。四条金吾殿という方は、ひじょうにりっぱな方でありまして、本名は四条中務三郎左衛門尉頼基【なかつかささぶろうざえもんのじょうよりとも】と申し、左衛門という官名が中国で金吾というので、四条金吾となったのです。日蓮大聖人様が打ち首になるときに、もし、日蓮大聖人様が首を切られたら、追腹切って死のうとした方です。

それほど信心強盛な四条金吾殿が、折伏によって同僚からざん言されて、主君から不興をかったときに、日蓮大聖人様は、主君の御恩をけっして忘れず、今こそ武士の本分を尽くすよう指導されています。また、あるお方が、お手紙を日蓮大聖人様にさしあげたのです。「このごろは忙しくて、法華経を読むひまがありません」と。そのときに、日蓮大聖人様の御返事が「御みやづかい(士官)を法華経とをぼしめせ」(御書全集1295㌻)、勤めが法華経である、商売が信心であるというのです。

この商売に熱心でなかったならば、いまの方はどういう方か知りませんが、高利を払っているということは、不熱心ということです。そうでしょう。合理的ではありません。
それをやめなければなりません。どうやってやめるかを考えなければいけません。その人、その人の事情によるからです。「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」、商売が信心です。その商売を熱心にやらないで、金ができないなど、不熱心ではありませんか。自分のもうけただけそこへ払うならまだいいですけど、ひどいばかは、借りてまで利息を払うのです。そのようなばかなことをしていて、商売熱心だといわれますか。私は、商売熱心ではないと思います。不熱心です。どうか、熱心にがんばりなさい。

 

お金の出る方が多い

[質問] お金がはいるより、でるほうが多いのですが、なんとかなりませんか。

[答] 「大白蓮華」に、過去世に泥棒をやってきたものは、毎日毎日はいってくるお金はあるけれども、それより早くお金がでていってしまうと、私が書いたのですけれども、勝手に書いたのではないのです。それは、釈尊がいっているのです。私がいったのではありません。その次には、日蓮大聖人様がおっしゃっていることがあるのです。「般泥洹経【はつないおんきょう】に云く」とおっしゃっているのです。ここが問題なのです。

経の内容は「おまえは貧乏人だと、どういうわけかというと、前の世に泥棒したから貧乏なのだ」と。「はあ、そうでございますか」といって、「それでは、私過去に泥棒したのですか、よくわかりました」といっただけでなんになりますか。このなかにも、そうとう過去世の泥棒がいるらしい。さきほどの奥様が、永遠の生命論を教えてくれといったが、それを聞いただけでなんになりますか。いま私のところにお金がないのは、過去世の泥棒のせいだ、これから泥棒してはあいならん、また未来世においてこういう貧乏するといわれて、それがもっともだとわかってどうしますか。貧乏を喜んでいけますか。そこに、釈尊の仏法と、日蓮大聖人様の仏法との相違があるのです。

いろいろ貧乏をしているのは、過去に泥棒したからとわかっても、「申しわけありません」と、だれにあやまるのですか。だれのをとったのかわかっていないし、覚えていません。わかっていれば返しに行けるけれども、だれのをとったのか覚えていない。それなのに文句をいわれて、貧乏人にされるのは迷惑です。仏様もずるいです。われわれにはわからないのですから。「そういうわけで、おまえは貧乏しているのだから、がまんしていろ」というのは、それはお釈迦様のほうがずるいです。

それを、日蓮大聖人様が、「そうしんぼうすることはいらんぞ。どうせ前の世では、おまえらろくなものではないのだから助けてやる」と大慈大悲を起こされたのです。観心本尊抄という御書に、はっきりしていますが、「ここで御本尊をおまえたちにあずけておくから、この御本尊を拝め。過去世でいかなることをしておろうとも、過去世で仏になるくらいの資格をつくった人の功徳と、同じ功徳をおまえらにくれるぞ」とおっしゃって、御本尊様をお与えくだされたのが、日蓮大聖人様なのです、心配いりません。

日蓮大聖人様の五字七字の御本尊を、三大秘法の御本尊を拝むところにおいて、権迹本【ごん・しゃく・ほん】の仏の因、如是因【にょぜいん】といいますが、そういうものを、われわれにくださっているのです。過去世で謗法をやっていてもいいのです。牢になど連れていきませんし、刑事も引っ張りにきません。前の世にやったことですから。安心して御本尊様を拝めば、大金持ちの種を植えたことになるのですから、安心して金持ちになって、そしてどこかへ遊びに行っていらっしゃい。

 

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