仏は衆生救済のため悪も熟知する。

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●御書講義録 第17巻 p.361~ から

まず、法理の面では、天台大師の一念三千・性善性悪の法門によって示されている。すなわち一念三千の法門によれば、人間生命には善も悪もその本性としてもともと備えている。善とは広くいえば四聖であり、その極善が仏界である。悪は広くいえば六道であり、また三悪道、四悪趣を指し、極悪は地獄界である。

妙覚の仏といえども、十界互具・一念三千の当体であり、極悪の地獄界から、極善の仏界まで、すべての生命は善と悪をともに備えているとするのが法華宗の教えである。これは、善悪をそなえているのは等覚の菩薩位までに限られるとする爾前権経と根本的に違う点である。

この、すべての生命にそなわる性善、つまり元品の法性が依報の上に顕れれば、正法を守護する梵天・帝釈等の諸天善神の働きとなる。逆に、本有の性悪、すなわち元品の無明が顕れれば、法華経の行者を悩ます第六天の魔王の働きとなる。

(中略)
 一念三千・性善性悪について

性善性悪があらゆる生命に具わっていること、妙覚の仏でさえ、その例外ではないということは、一念三千・十界互具が必然的に意味するところである。性善性悪は、すべての生命に本来的にそなわる善悪の性分を指している。これに対して、行動の次元に本来の性分が顕れて、その効用を発揮することを修善修悪という。諸法実相・十界互具を説く天台家では、法性真如に善悪の性徳を具すと主張するのである。

観音玄義巻上には「問う、性徳の善悪は何ぞ断ずべからずや。答う、性の善悪は但是れ善悪の法門なり。性改むべからず、三世を歴て誰も能く毀つものなく、復【また】断壊すべからず」(大正34巻882㌻)と記されている。すなわち、性分としての善悪は、本有の存在であり、迷悟にかかわらず改変しえないものである。

ゆえに極善の仏にも性悪を具し、逆に極悪の一闡提【いっせんだい】も性善を断壊することはないのである。ただし、仏に修悪はなく、一闡提に修善はないのである。仏は性悪を具すことによって、極悪の衆生が悪をなし罪業をおかすに至った心情を理解することもでき、また、そうした衆生を救済することも可能になる。

観音玄義巻上には「仏は性悪を断ぜずと雖【いえど】も、而も能く悪に於て達す。悪に達するを以っての故に、悪に於て自在なり。故に悪の染する所とならず、修悪起こるを得ず、故に仏永く復【また】悪無し。自在を以っての故に、広く諸悪の法門を用いて衆生を化度す。終日之を用いて、終日染まらず」(大正34巻882㌻)とある。

仏は性悪があっても、悪に縛られるということはなく、それによって悪によく通達し、悪を自在に制し、それによって、衆生をよく救済することができるのである。つまり、仏は悪を用いても、悪に染まり、悪の行をすることはないのである。このような性善性悪の法理にのっとって、末法においては日蓮大聖人が、濁悪の世の衆生に具した性善を開発し顕現するために、文底下種の南無妙法蓮華経を説かれたのである。

 

【ひと言感想】
末法の三毒強盛の衆生を救うには、単なるお人好しでは無理です。悪事(謗法)を為すに至った人々の心情を理解し、根底から救済するには、仏にも三悪道の命が具わっていなければなりません。自身は悪を行わないけれども、悪をも熟知しているのが仏なのです。

法華経の生命論があまりに深いことに感動します。悪と詐(いつわ)り親しむことなく、岩盤のような無明に覆われた悪人が悔いる心を起こすまで、徹して悪を責め抜くことこそが慈悲に通ずるのです。

 

 


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