妙とは不可思議

学会の御本尊には不可能を可能にする力があります。
どう考えても無理と思える願いも、創価の信心をやり切れば必ず叶えることができます。

「妙とは不可思議の意味」ですから、我々凡夫の考えは遠く及ばないのです。
どのように願いが叶うか、どういう手順で実現に向かうかは、我々には分からないのです。
あれほど長い期間、思い悩んだこと、あきらめていたことが、叶ったあとでは、驚くような劇的さで、周りのすべてが諸天善神の働きとなって、祈りが実現したことが分かるのです。

「私は業が深いから、叶わないだろうな」
ということもありません。
どんな例外もありません。
折伏をやり切れば、どんな願いも叶える無眼の力が、御本尊にはあるのです。

御本尊には手も足もありませんし口もありません。
ですから自分自らが手となり足となり、仏法をしゃべって「御本尊のお使い」をするのです。
そうすれば、必ずどんな願いも叶います。

私は長年患っている持病があります。
信心していてもついつい、
「こんな病気をしていれば、まともな人生を願っても無理だろう」
と弱気やあきらめの心が出ることがあります。

しかし、悩みの無い人なんているでしょうか。
病気が無かったとしても、経済苦や家庭不和、ギャンブル依存であるとか、仕事上の深刻な悩みや、学歴が無い劣等感であるとか、奥さんに逃げられたとか、誰しも人に言えないような深い悩みの1つや2つは持っているものです。

創価の信心は、そうしたどんな悩みであっても、解決できるだけでなく、所願満足といって、心から願っていることを全て叶える人生にすることができるのです。
そのためには、御本尊を強盛に信ずる心が大事です。
何があっても御本尊を離さない、退転しない、生涯貫き通す信心が大事です。
そのためには、どんなに強い人でも、1人だと倒れてしまうのが人間ですから、「善知識の集い」に積極的に参加していくことが大事となります。

以上は、今日、友人が来訪したので、その中で私が対話した内容を元に、記事にしてみました。
より一層、決意を込めて、思いも新たに広布の戦いに取り組んでいきます。

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創立記念日

創立82周年の18日は、3月以来2回目の主戦場入りとなりました。
8時間を要しました。
行こうと決めて直ぐに、今年最も大きな仕事が入り、驚き半ば喜び半ばです。
(来月17日までは、この話題は詳細は自粛することとします)

一念の妙用とはかくも劇的に見事に展開していくのですね。
だんだん負荷がかかってきますし、1人暮らしの疲労も溜まっているかもしれません。
上手に小休止を取りながら、今年残りを乗り切っていきます。


(パイネ山脈)

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御宮仕えを法華経とおぼしめせ

人間革命の何巻であったか忘失したが、戸田先生がある男子部幹部を烈火の如く叱られる場面がある。

その男子部幹部は、職場に頻繁に遅刻し同僚にひんしゅくを買っていた。
そればかりか、いつどこに消えたのか行動が見えないことが多かった。
戸田先生はその男子部幹部に対して、
「仕事を疎【おろそ】かにして、折伏に飛び回っているような者は、私は断じて信用しません」
と烈火の如く叱れられました。

その男はやがて議員にもなりますが、いつしか信心が解らなくなり退転してしまう。
仕事はともかく折伏実践には飛び回っていても、烈火の如く叱られる。
信心とは誠に峻厳であります。
まして、仕事も信心実践も、何かと言い訳を弄してサボり、口先だけさも立派な言説を弄し並べ立てるような輩は、いかほどにお叱りを受けることか。

対話すると戦えない理由を、
「いま、~~~の悩みがあって、それどころでない」
という人がよくいる。
そういうひとは、1つの悩みが解決したとしても次の新たな悩みが来るので、永久に戦えないことになる。
いかなる悩みがあったとしても、悩みを抱えながら、その解決を賭けて果敢に戦うのが、正しいあり方である。

さらに退転者へのご指導では、退転者というのは、まず生活が乱れている。
よく金・女(異性)・人事と言われるが、職場に遅刻を繰り返したり、酒びたりだったり、勤行してないのにしていると嘘を言ったり、地道な学会活動をバカにして、それが生活の乱れに現れる。
そしてそうした乱れ切った自己の生活・信心を、ともかく自己弁護して正当化しようとする。
正面からそれを指摘してくれる人に対して、あろうことか逆上したり、注意してくれる人に感謝もできず暴言を吐いたりする場合もある。

信心とは、単なる小難しい法理の積み重ねではない。
御書もいくら全編拝読したり全編を丸暗記したり、駆使できようとも、たった1つの御文であっても命を懸けて実践し体現した人の方が、百千万億倍優っている。
百万の御書をそらんじて実践しない者より、1つしか御文を知らなくとも実践する者の方がはるかに優っている。

本当に信心とはどこまでいっても「心こそ大切なれ」である。
「秘とは厳しきなり、三千羅列なり」とある如く、信心に一切の妥協はないのである。

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仕事が途切れない

聖教新聞が読めないのが溜まっているとの投稿をしたばかりですが、その次の日に短期ですが啓蒙が1部できました。
けっこう間が空きました。
購読推進もこの調子で頑張ります。

なかなか聖教を読む時間が取れない理由の1つに、仕事が途切れずに受注が入っているのがあります。
正常に使えなくなったパソコンの修復のあと、HP作成の仕事と続いている。
どちらも数十時間を要する仕事です。

新聞が読めない理由に仕事を言い訳にはできないですが、しっかり1日90分以上の唱題の方は欠かしていませんし、内外の家庭訪問や会合参加もできる限り取り組んでいます。

仕事の入る時期や、その量が絶妙なくらい、私の状況にピッタリなのです。
あくまで仕事ですからそれなり苦労はありますが、負荷がかかり過ぎることなく、何とか無理なくこなしていけるペースで、次々に仕事が入ってくるのです。
祈りが叶っています。

祈って、動いて、語って、努力すれば、ほんとうに叶うんだ、ということを実感しています(笑)。
そんなこと当たり前だろ、とお叱りを受けるかもしれませんが、未だ小さいと言えば小さい、等身大と言えば言えそうな祈りですが、やはり嬉しいですね。

11・18まであと10日間です。
さらに自分らしく勝利の結果をつかんでいきます。

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聖教新聞など

いま数えたら、読めていない聖教新聞が14部溜まっている。
公明新聞日曜版も取り始めたのだが、読みかけが4部溜まっている。

やっと外に打って出れたかな、と思ったら、機関紙の方が疎かになっていた。
一番理想的なのは、啓蒙を推進し、自分も熟読することだが、最近はそのどちらも落第点だ。

聖教は読まないと微妙に一念がずれてくるから恐ろしい。
一生懸命やっているようで、ピントがずれた、独りよがりの、境涯の低い自分に甘んじる傾向が強くなってしまう。
先生、学会総体の動きに遅れをとる、というのは、本当に怖いことなのだ。

「信行学」をしっかりやり切るとは、難しいことだ。
2年~5年位なら多くの人ができるだろうが、10年、20年、数十年とやり切っていくのは並大抵のものではない。

何よりも、題目や学を自分らしくやり切っても、特に化他行=折伏 は特に難事である。

こう考えてくると、いかに自分の戦いに抜けがあるかに愕然とするが、一切は学会活動に含まれる、のだから、もっと自信と誇りを持ってもよいとも言えそうだ。

生身の人間なのだから、時にはスポーツで心身をほぐしたり、自然の中で癒されたり、ゆったりと音楽を聴いたり、といった心の栄養を摂ることも大事だ。
多忙な仕事の上に学会活動をしているのだから、そうしたリラックス・タイムはそうそう持てるものではないが、だからこそ逆に意識して、そうした時間を創り出していくことが必要だと思う。

新聞が溜まった話から心の栄養に話が移ってしまったが、信心が何十年になってくると、毎日読む新聞も同じことの繰り返し、との惰性と無感動が働いてくる。
そこが惰性から慢心へと変わり、やがて魔に食い破られるきっかけとなる、と思う。

聖教を読まない(実は読めないのだが)自分が、仏法に対する怠惰を棚に上げて、聖教には真新しいことが少ない、との批判は的外れである。
それは聖教に対する誹謗であり、自惚【うぬぼ】れや慢心以外の何ものでもないのである。

要は新聞に真新しいことが無くなったのではなくて、原点を見失った自分がそこに存在しているのだ。
自ら常に新しい課題と目標を立てて、それに突き進む時、惰性も停滞も無くなるはずだ。

聖教には感動がないとの囁きがあったとしたら、それは魔の囁きだ。
仏法を人生を賭けて行じる、無冠の民衆王者たちへの冒涜【ぼうとく】である。
その人間は、何が人間としての真実の価値あることかを、完全に見失ってしまった人間である。

繰り返しに飽きるというのは、一見、同感を得られそうだが、そこが「修行」と言われるゆえんでもある。
いわば題目も新聞なども基礎鍛錬であるとも言える。
基礎を疎かにしては、その上に何も立派なものは建てられない。

繰り返しの中にこそ達人・名人への道が開ける。
もちろん持って生まれたものもあるだろうが、数十年~一生涯持続し抜く中にこそ、その中で惰性と慢心を打ち破り、勇猛精進していくことが、何ものにも負けない師子王の自分を築き上げる秘訣なのだ。

池田先生は、太陽も1年365日繰り返し繰り返し昇る、と仰っています。
そして未来部にたいしても、お母さんは毎日毎日食事を作ってくれる。
もし、太陽が休んでしまえば大変だ。
もし、お母さんがご飯支度を休んだら、腹ペコで大変だし(笑)、一家は大変なことになります。
こういう先生のお話だったと思います。

考えてみれば、農夫は繰り返しが嫌だと言って仕事を休めば、収穫は得られません。
サラリーマンももう飽きたと言って出勤しなければ、給料は無しですし、解雇されてしまうかもしれません。
何事も続けることによって、一定の収穫が得られるのは、自然界と社会の道理なのです。

「こういうことを書いてる暇があるなら、新聞読んだら?」
と言われそうですが、ごもっともです。
こうして読む意義を多面的に考察しておくことも、あながち無駄とは言えないと思います。
長文を最後まで読んで頂き有難うございます。


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