滝の詩

今月の座談会で『滝の詩』を歌うので、只今、練習中です。

グラスゴー大学のフォーブス・マンロー博士が、創価大学で記念講演の際、『滝の歌』について言及されております。

青森県の奥入瀬で詠われた創立者の『滝の詩』について言及。
「私は1994年6月、創大創立者の池田大作先生に対するグラスゴー大学名誉博士号授与式の推挙で、奥入瀬の滝の詩を引用させてもらいました。
『滝の如く激しく滝の如く撓まず 滝の如く恐れず 滝の如く朗らかに 滝の如く堂々と 男は王者の風格を持て』とのこの詩は、池田先生の堅実で、信頼でき、誇り高き真のリーダーとしての人格を表現するのに最も適していると思いました。
さらに先生の多くの美しい詩に触れ、青少年時代のことを思い出しました。
スコットランドは、北海道とほぼ同じ広さと人口。
私の故郷スコットランド北部のハイランドは、山、川、そして滝があり、青森と非常によく似ています。
最初に奥入瀬の滝の詩を読んだ時、地球の何千マイルも離れた青森に思いをはせたことを昨日のように思い出します」
と語りました。

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五番街のマリーへ

ここでまた懐かしい曲を聞いてみましょう。
高橋真梨子さんは私より15歳年上で今では還暦を越えられていますが、歌唱力、曲調ともに気に入って、学生時代によく聞いたものです。


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国家資格試験の結果

このことに触れたくなくて、放っておいたのだが、ここで今年度を総括し再スタートを切ろうと思う。

8月初めの土・日に札幌に1泊して、5年目となる国家試験の1次を受けた。
その結果が先月、発表され、
「運営管理( オペレーション・マネジメント )」
「経営法務」
の2科目があとわずか一歩で科目合格を逃してしまった。
あと1問、もしくはあと数点取れれば両方とも合格であった。

他の3科目はパッとしない結果であり、どう打開していくか、さらなる努力次第だ。
6~7科目はすでに科目合格していたので、今年は免除だった。

受験直前は「今回はいけるのでは」との手ごたえのようなものを感じていたのだが、どこかでまだ甘さがあったようだ。
合格に必要な学習時間が少なくとも700~1000時間と言われる試験なのだが、私の記録では600~750時間ほどが実際に積み重なっている。
ただしこの時間は5年間もかかっての累計であり、150時間の幅があるのは、「財務・会計」の基礎として「簿記」のセミナーを受講した分を含むか含まないかである。

振り返ってみると「まだまだできるはずだ」との努力の不足を感じる。
多くの受験生はフルタイムの仕事をこなしながら、空き時間で学習している人が多い。
自分の場合、専門学校を受講していないことと、持病があるのが不利条件だが、自己の弱さに負けてる部分や、効率の悪いポイントのずれた学習をしている面が、多々あるのだと思う。
創大現役生で資格試験に臨む人が、「1日10時間勉強しています」と言うのをよく見聞きしたが、私の場合自営業もこなしながらであるが、休日でも6時間超えがやっとであった。

「資格というのは取ってなんぼだよ。
合格してこそ評価されるんだ。
僕は資格を受け続けて○年です、と言ったって誰も評価しないよ」
と壮年幹部の方に厳しく言われたこともあります。
その意味では、こういう場に事細かく書くこと自体も、恥の宣伝みたいなものになるのかもしれません。

そう指摘下さった人へ、
「そんな簡単に言うなら、あんたが合格してみなよ」
と喉まで出掛りました、正直言うと。
ま、でも、一理も二理もある指摘だ。
数ある知り合いの中で、そうした厳しくもハッキリ言ってくれる人も有り難い存在である。

それはともかく、ざっくり総括すると、
「まだまだ甘い、努力の余地が大きい」
となると思う。
1次2次ストレート合格は、旧司法試験に近い合格率3~4%位であるが、私の1次の段階では20%位がパスするのだから、この結果は余りにも不甲斐無い。
と、いうことで、来年度も気合を入れ直して頑張ります。

(こんな状態で、さらに「司法書士」とのダブル受験するべく、そちらの方も少しずつ学習開始した)

5年受けた国家資格の雰囲気が解る動画ということで、専門学校の無料動画を紹介する。
ほんの触りだけだが、雰囲気が伝わると思う。
動画は2つある。
「講義を視聴する」ボタンを押すと見ることができる。

専門学校の無料講義の動画


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寿量品講義(2)

特に強く印象に残った部分の抜粋です。
(『池田名誉会長の法華経方便品・寿量品講義(三)』 p.127~)

仏にとっては、一切衆生は皆「吾が子」です。
仏は、実に親のように、子どものことをよく分かって、さまざまな手を尽くす。
諸【もろもろ】の方便を用いる。
その最大の方便が、仏の入滅なのです。

本当は、仏はつねに人々のそばにいて見守っている。
「常住此説法(じょうじゅうしせっぽう=常に此【ここ】に住して法を説く)」です。
しかし、わざと姿を見えないようにする。
これを「雖近而不見(すいごんにふけん=近しと雖【いえど】も而も見えざらしむ)」といいます。
なぜ仏は、わざわざそのようにするのでしょうか。
それは、衆生を本来の自己に目覚めさせ、自立させていくために必要だからです。

これも、子どもの例でいえば、赤ん坊に”いないいない、ばあ”をして、あやすようなものです。
また、子どもは”かくれんぼう”が好きです。
これらは、子どもの心理の発達のうえから考えると、実はとても大事なこととされる。
目の前にはいなくても、どこかにいる。
必ずまた会える――。
このような安心と信頼を育てるからです。

こうした心情が育まれていけば、自立の力が生まれます。
いわば、心の中に親が住んでいる。
目には見えないけれども、心には確固として信頼できる人がいる――。
この原理は、大人になっても同じです。

他の誰が見ていようがいまいが、”あの人”だけは分かってくれている。
”あの人”だけは自分を信頼してくれている。
この絶対の安心が、この不動の信頼が、大きな励みになり、何よりも力になる。
だからこそ、伸び伸びと自由に、思う存分、活動できる。

今世だけではない。
三世にわたって衆生を見守ってくれる「親」が、寿量品に明かされている「永遠の仏」なのです。
とはいえ、自らの心に厳然と具わる仏も、顛動【てんどう】の衆生には見ることができない。
そこで、日蓮大聖人が御自身の仏の生命を御本尊としてお認めくださったのです。
この御本尊を鏡として自身の心の御本尊を見ることができるのです。

仏の慈愛の深さ智慧の深さをほうふつとさせる先生の講義です。
全ての弟子たちに、一切衆生に「一人立つ」ことを教え打込むために、仏は神通力を用いて方便として死の姿を現じるのです。
そしてその意義は幼児教育の原理からも、その正当性が立証できるのです。

たとえ師匠が目の前に見えなくなったとしても、
すべて解って下さっている、
わが心の中に師が住んでいる、
との自覚を持つことが必要なのですね。
どこまでいっても師の恩は有り難いです。

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寿量品講義

今日は池田名誉会長の『方便品・寿量品講義(三)』を半分ほど読んだ。
本棚には同じ本が2冊あり、1冊は友人の所へ貸してきて、友人に読むよう勧めたのだから自分も改めて読まないとな、と思い約16年振りにひも解いたのだ。
その前に、壮年本部長から読むよう勧められたのもある。

寿量品では五百塵点劫という仏の長遠な寿命が明かされる。
その永遠の生命を持つ仏がなぜ死を現じるのか、との根拠が「方便現涅槃」である。

仏弟子や衆生は、仏がいつまでも生きておられると安心してしまえば、仏を求める心も、仏を敬う心も失ってしまい、その結果として信心が弱まり苦悩に沈んでいってしまう。

そうした弟子たちの依存心を断ち、渇仰の心、恋慕の心を起こさせ、自立した「一人立つ」実践者となるよう促すために、仏は方便として涅槃=死 を現じるのである。
しかし永遠の生命を持つ仏は、不惜の実践あるところに、瞬時に脈動し、世界中あらゆる所で生き続けているのである。

法華経は滅後のしかも末法に生きる私たち1人1人のために説かれた経典である。
未来の私たち衆生までも救わんがための、究極の慈悲と智慧の結晶なのである。
一般論としても、自分の代さえ良ければいい、死んだあとのことはどうなっても構わない、というのは指導者のエゴであり無慈悲であると、先生は仰っています。
自分亡き未来を見据えて人知れず手を打ってこそ、真の指導者であると。
ですから、人を不安に陥らせるだけの終末論は仏法とは無縁なのである。

「遣使還告」~けんしげんごう とは寿量品で説かれる「良医病子」の譬えにおいて、毒を飲んで苦しむ我が子が、本心を失って、どうしても良薬を飲もうとしないので、方便の故に使いを遣わして「父は他国へ行き、もうすぐ死ぬだろう。お前たちは、ここに置いた薬を飲むように」と遺言する。
この使いの者が、地涌の菩薩なのであり、仏滅後に妙法を弘め、苦悩に沈む衆生を救っていく「仏の使い」なのである。

私如きが解説し直そうとしても、二番煎じでしかも読んだ醍醐味をほとんど紹介しきれないが、志しある人はまた熟読されることをお勧めする。

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