病の意義

以下は今日付の新聞から、池田先生のご指導の抜粋です。
(抜粋した各部分は、順番が前後入れ替わっている所があります)

御聖訓には「この病は仏のお計らいだろうか。そのわけは、浄名経、涅槃経には病がある人は仏になると説かれている。病によって仏道を求める心は起こるものである」(同1480㌻)と御断言です。
病気という苦難を糧にして、自分の信心を強め、境涯を深め広げていくことができるのです。病気との闘いは、妙法に照らして、永遠の次元から見れば、すべてが幸福になり、勝利するための試練です。

病気だから、不健康なのではありません。他人や社会から決められるものでもない。
健康は、何があっても負けない自分自身の前向きな生き方の中にこそあるのです。
皆さんには偉大な使命があります。希望に燃えて、絶対に生き抜いていただきたい。
断じて健康になり、病気と闘う多くの人を励ましてもらいたい。

「生老病死」の苦しみを転じて、最高の「常楽我浄」の人生を勝ち抜いていくのです。
これが「創価」の生命です。

(中略)
大聖人は時光に仰せです。
「(信心強盛であるあなたが)もはや仏に成ることは間違いないと見えたからこそ、天魔や外道が病にさせて脅そうと、こころみているのでしょう」(同1587㌻、通解)
時光は、熱原の法難の際にも、勇敢な信心を貫き、矢面に立って同志を守り抜いてきました。
病気になることは、決して敗北などではない。
信心が弱いからでもない。
広宣流布に生き抜く中で起きた病気という苦難は、成仏を阻もうとする魔の働きである。
ゆえに、怯んではならない。
勇敢に立ち向かって、一生成仏を勝ち開いていく勇気を教えられているのです。

大病をしたお陰で、先生の病気に関するご指導を、深い感動と共に拝することができます。
もしも病気にならなかったら、先生の指導を他人事のようにしか聞けなかったでしょう。


さらに言えば、私は最初に勤めた企業が外資系大企業だったことにも表われていますが、元々、上昇志向が強く、解りやすく言えば高慢で生意気な性格が多分にありました。
もしあのまま大病もせず順調に社会で出世していたとしたら、それなりの財と名声を手に入れエリートの1人になっていたでしょう。
しかし一見、人には羨まれるような姿であっても、その内面や心を見た場合、どんな人間になっていたでしょうか。

私は若い時に病気を経験したことで、同じように病に苦しむ人の気持ちが深く分かるようになった。
そうした人々に同苦して、心から励ましていける自分になれました。
それ自体が、信心の冥益であり、福運であると思っています。


病と自分なりに四半世紀、25年間にわたって戦ってきて、この先生の言葉が心の底から
「先生、その通りです」
と感動を持って読むことができます。
病に苦しむ人に同苦し励ましていける自分になれたこと自体が、信心の冥益であり福運である、との感謝と深き信心に立つことを改めて銘記しました。
一日も早く全快し、人々へ希望の光を発していけるよう、精進してまいります。
(H28.10.21 加筆・修正しました)


 

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同中へ4名で参加

ひぼしにされた~云々の記事は、少し重かったでしょうか。
メンタル系はどうしても、様々の抑圧や葛藤、時には自他のひがみ根性とも向き合うことになります。
気を取り直して、ここで活動報告を1つ致します。

この前の日曜日に、ここ数年間ずっと対話している友人を、しばらく振りに同中へ参加させることができました。
同時に地区の壮年2名(うち1名は私の父)も連れ出し、計4名で友人と私の車2台に分乗して行ってきました。

友人は当初、参加の意志は無かったようですが、珍しく私の父と囲碁を打ったり話し込んだりして、父に促される形で参加してくれました。
会館では、たまたま同時間に参加していた圏長や副本部長と友人が、言葉を交わすこともできました。

特に未来部の出演者たちや、創大ロボ・SOBITを通じてのやりとりに、感銘を深くしていたようです。
内外合わせて3名も連れ出せて、1つ役目を果たすことができ、私も歓喜して帰宅しました。
ちなみに、その友人は、ここ1ヵ月位来る度に、勤行・唱題を一緒にすることができています。

大きな節目を通過するまであと1歩と捉えて、勇気ある前進をしていきます。

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ひぼしにされた人間はだめ人間である?(2)

引き下げの心理の他に「投影」といって責任を相手にぶっつける心理がある。

ある会議に部下Aを招くのを忘れていた上司が
「お前のスケジュールが分からないもので声のかけようもなかった」
という。
部下Aは「すみません」と答える。
部下はいかにも自分が悪いことをしたように思ってしまう。
無計画に出たとこ勝負ですぐ会議を開く自己中心的な上司の責任は不問のまま、部下にのみ責任を求めるのは、責任回避の策である。自分の責任を人のせいにする方法を投影という。

人の投影に気づかないと自己をせめることになる。
自分をせめすぎると「うつ状態」になる。
それゆえ、頭を使って
「本当に私は悪いことをしたか。上司・先輩・同輩・後輩のそれぞれにも責任はないか。私一人が自己反省するのは妥当か」
と自問自答することである。

(中略)
自分は上品ぶって人とけんかもせず、その不満をカウンセラーや親に語り、カウンセラーや親に問題解決にのり出してもらうという姿勢はきわめて欺瞞【ぎまん】でわがままである。
おとなとは、自分の問題は自分で解こうとする人のことである。


さらに人をひぼしに追いやる人間には、人を辞めさせたいのだが「辞めてくれ」というのは嫌なので、故意に人の嫌がる仕事を押し付けることがある。

遠方に通勤、早朝に出勤、気難しい上司の下に配属、特別の能力を要する事務を担当、など。
すると当人はいや気がさして辞めていく。つまりマイルドないやがらせである。

ところがどう考えても、自分に落ち度があった、自分が馬鹿だった、ひぼしにされて当然である、と判断せざるを得ないこともあるが、それでもなおかつ、自分はだめ人間である、自分の人生はこれで終わりだと考えるべきではない、と筆者は言います。

1つは、自分はだめだったと百万遍自分をせめたところで心境に変化が生じる訳ではなく意味がありません。
そこで「今後、同じような失敗を再び繰り返さないためには、自分はどうしたらよいか」を具体的に考えるのです。

ひぼしになった原因がどう考えても自分にあると思う場合に、落ち込まないための2つ目の処方箋は、人格と行動は別物であるとの考えを持つことだと指摘しています。
「私はだめ社員です」と人格を評価するのでなく、「私の働き方は下手でした」と行動を自己評価する言葉にするのです。

人格を自己評価している訳ではない。
販売が下手、収支決算表の作成が下手、朝礼の挨拶が下手、電話の応対が下手。
「だからといって」その人は人間としての値打がないとはいえないのである。
イエス・キリストがワープロが打てず、車が運転できないからといって「だめ人間」と思う人はいないのと同じである。
給料は自分の人格に支払われているのではない。
自分の役割(パフォーマンス)に支払われている。
ゆえに役割がこなせないとお払い箱になるかもしれないが、かといって人格がお払い箱になったのではない。これをきちんと自分に言いきかせる必要がある。


医学は血が噴き出しているようなケガを治すことができます。
これに対して人間は誰しも「こころ」を持っているにも関わらず、こころの動きや感情を軽視してしまいがちです。
もしかすると貴方のこころは傷つき、あたかも血を噴出しているような状態かも知れません。
そんな時に心理学やメンタル・ヘルスが役立ちます。
その第一歩は、自他の心について知識を深め、上手に活用できるようになることだと思います。

時には足かせともなるように感じられる感情ですが、なぜ人間は感情を持っているのでしょうか。
それは人類が集団行動で生き残って来たことと、関係が深いようです。
霊長類である人間は、腕力が弱い分、仲間同士で助け合い、集団で行動するために、緊密にコミュニケーションする必要があり、共感力等、豊かな感情が備わったと考えられます。

仏法はより根源的に生命の因果を明かした教えです。
今日の心理学の領域に踏み込んだ、深い知見も数多く見られとともに、それら科学を始め一切の人間の営みを指導する哲学でもあります。
今回紹介した本は21年前のものでかなり古いですが、また1つ収穫が得られました。

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ひぼしにされた人間はだめ人間である?(1)

「イラショナル・ビリーフ」という用語がある。
国分康孝さん著の『自己発見の心理学』という本に出てくる用語です。
氏は哲学博士であり、カウンセリング心理学の専門家です。

さて「イラショナル・ビリーフ」ですが、例えば「私は失業した。ゆえにもう生きられない」というビリーフがそれです。
ビリーフとは考え方、あるいは受けとり方を意味し、英語ではBeliefと書きます。

「失業した」という文章と「もう生きられない」という文章とが、どうしても結びつかなくてはならない必然性はあるか、と自問するのである。
「失業した。ゆえに失業保険で当分暮らそう」
「失業した。ゆえに次の職を探そう」
「失業した。ゆえにこの機会に少し静養しよう」
「失業した。ゆえに父の家業を継ごう」
といった具合に、「ゆえに」のあとに続く文章はいくつでもある。
いくつもあるのに、よりによってみじめになる文章を任意にえらび、いかにもこれが人生の真理のように思い込んでいる。
これはまともなビリーフではない。イラショナル・ビリーフである。

悩みの下にあるイラショナルな文章記述を発見し、それをラショナル(=合理的)な文章記述に変えることが、悩みから脱却する方法であると筆者は提唱している。
「こうあるべきである」「こうあらねばならない」との考えが、いかに思い込みであり錯覚であることが多いか、ということを人生の様々の局面を挙げて、解きほぐしているのが本書です。
中でも私が一番興味深く読んだのが「ひぼしにされた人間はだめ人間である」の章です。

「ひぼし」とは周りから低い評価を受けて、仲間はずれにされることである。
職場での村八分である。
気の弱い人間は、自分の人生もこれで終わりだ、自分は欠陥人間らしい、辞めるか死ぬかのほかに打開策はないと思いこむ。


考え方を工夫するポイントとして筆者は3つ指摘する。
第1は、私をひぼしにした上司は私を正当に評価していない! と答えるのが普通ですが、これは上司と私の価値観は異なって当然であるということを見失っているのです。
私に上司の価値観をえらばない自由があるように、この上司も私の価値観をとり入れない自由があるのです。
価値観が違うからといって一日8時間を共有できない訳ではないし、私生活まで支配されている訳でもないし、世も末な訳ではないのです。

第2のポイントは、ひぼしにする側にこそ、何らかの心理的問題がある場合です。
ニワトリ小屋に新しく入れられたニワトリを古参ニワトリがいじめるのと似ています。

これは「引き下げの心理」といって、古参社員が新入社員に劣等感を持った場合、自分たちの劣等感を消すために、新入社員にケチをつける心理である。
いじめられる方にすれば、自分が至らない人間だから・・・・と反省もしたくなるが、実はいじめる側が至らない人間なのである。したがって自己非難、自己卑下、自己分析するよりは、心密かに相手方を分析し卑下し非難した方が理にかなっていることがある。
上司・先輩を批判すべきではない、と模範生徒ぶらない方がよい。
「彼たちは今、私に引き下げの心理を向けている」と見抜いて、なるべく相手の劣等感を刺激しないようにする。しかし全く刺激しないですますわけにはいかない。
そこは居直ればよい。



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