霜露の命の日影を待つ計りぞかし


●如説修行抄 御書504ページ

哀【あわれ】なるかな今・日本国の万人
日蓮並びに弟子・檀那等が
三類の強敵【ごうてき】に責められ
大苦に値【あ】うを見て悦んで笑ふとも
昨日は人の上・今日は身の上なれば
日蓮並びに弟子・檀那共に
霜露【そうろ】の命の日影を待つ計りぞかし、

只今・仏果に叶いて
寂光の本土に居住【きょじゅう】して自受法楽せん時、
汝等【なんじら】が
阿鼻【あび】大城の底に沈みて大苦に値【あ】わん時
我等・何計無慚【いかばかり・むざん】と思はんずらん、

汝等・何計【なんじら・いかばかり】
うらやましく思はんずらん、
一期【いちご】を過ぐる事程【こと・ほど】も無ければ
いかに強敵重なるとも
ゆめゆめ退する心なかれ恐るる心なかれ

 

[通解] 哀れなことかな、今日本国のあらゆる人々が、日蓮と弟子檀那等が三類の強敵に責められ、大苦にあっている有様【ありさま】を見て、悦【よろこ】んで嘲笑【ちょうしょう】していようとも、昨日は人の上、今日はわが身の上とは世の常の習いである。

いま日蓮ならびに弟子檀那が受けているこの苦しみも、ちょうど霜や露が、朝の太陽にあって消えてしまうように、わずかの間の辛抱【しんぼう】ではないか。そしてついに仏果に叶って、寂光の本土に住んで自受法楽する時に、今度は反対に、今まで笑ってきた謗法の者が、阿鼻地獄の底に沈んで大苦にあうのである。

そのとき、われわれはその姿をどんなにかかわいそうに思うことだろう。また彼らはわれわれをどんなにかうらやましく思うことだろう。一生は束【つか】の間に過ぎてしまう。いかに三類の強敵【ごうてき】が重なろうとも、決して退転することなく、恐れる心をもつようなことがあってはならない。

[引用ここまで]

[ひと言感想]
迫害される側と迫害する側、やがてかならず正邪の決着が明白に着く時が来ます。否、断じて正義が勝たねばなりません。それでこそ、自分のみならず一切の恩ある人々を守れるからです。法のため、全民衆の安穏のため、そして自他の幸福のために、「月々日々に強」る信心で前進していきます。

 

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2 Replies to “霜露の命の日影を待つ計りぞかし”

  1. 引用されている『如説修行抄』の一節、
    『寂光の本土に居住して自受法楽せん時』。
    この「自受法楽」は、9月の座談会で学んだ
    『衆生所遊楽御書』にも出てきました。

    「自受法楽」とは、如来寿量品第十六で説く、
    「衆生所遊楽」のことであるというので、
    朝晩読誦している当該箇所をじっくりと
    読み直してみると、次のような内容でした。

     我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり
     園林諸の堂閣 種々の宝をもって荘厳し
     宝樹華果多くして 衆生の遊楽する所なり

    我が国土(仏国土)は、穏やかで安全で、
    諸天の加護に満ち満ち、草木の生い茂る山林、
    全ての建物や集会所は、多くの宝物で荘厳され、
    木々や草花は、鮮やかな花に彩られ、
    豊富な果実を実らせ、そこには、生きとし生ける
    衆生たちが遊び戯れ、人生を楽しんでいる。

    仏国土=寂光の都とは、そういうところであるとは、
    理解できます。
    しかし、この直前、前提となる一節は・・・

     衆生劫尽きて 大火に焼かるると見る時も

    と、あります。

    人間が生を営める時代が過ぎ終わって、
    生きとし生ける者が大火に焼かれるほどの苦を受ける。
    そういう時代相に在っても・・・。

    日本は今、大地震、被害甚大な台風、活火山の噴火等々、
    毎年のように自然災害に見舞われ、国民は塗炭の苦を
    蒙り続けています。
    子や妻、老父母への虐待も止むことなく、親殺し子殺し、
    ストーカー被害や無差別殺人等々・・・悲惨な状況を
    ニュースで眼にしない日はありません。

    自然災害は、日本に限ったことではなく、アフリカや
    中東を中心に内戦やテロで多くの犠牲者や難民を出し
    ・・・まさに『衆生劫尽きて』の様相ですが、
    そういう各所にも仏はいるというのか・・・
    『我が此の土は安穏にして』と言える国土世間、
    衆生世間をそこに現出させているというのか・・・

    「そんな世界があるとは思えない」
    そう感じながら煩悶しておりました。そして気づきました。
    「ああ、確かにいる」と。
    仏は、どこか他にいるのではない。
    『大火に焼かるると見る』そういう苦悩に満ちた世界に
    住むひとりひとりの衆生の生命(五陰世間)に確かに
    存在し、その大境涯は確かに脈打っているのだと。
    そうと気付いた時、『衆生所遊楽御書』の次の一節は、
    私の中で、全く違う景色・情景として胸の内に入って
    来ました。

    『苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき
     苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経と
     うちとなへゐさせ給へ、
     これあに自受法楽にあらずや』

    この感動を確信にしてくれたのが、レオさんのブログ
    での10月2日付記事『仏は衆生救済のため悪も熟知する』
    でした。
    非常に大事な観点の先生のご指導を紹介いただき、
    ありがとうございました。

  2. 福島の壮年さん、ご多忙の中、法華経を紐解いての貴重な講義を有難うございます。自受法楽と衆生所遊楽、そして苦をば苦とさとり・・・の御文が、お陰でストンと心に入りました。

    仰る通り、自然災害や国内外の悲惨な事件、テロや難民を見るにつけ、「我此土安穏」の経文が信じ難い現状があります。そこには一面から言うと、いつの時代も変わらない、人間の業の深さがあります。際限ない欲望に突き動かされて、自然環境を破壊し続けたために、異常気象などの大きなしっぺ返しを受けているのです。

    しかし、「『大火に焼かるると見る』そういう苦悩に満ちた世界に住むひとりひとりの衆生の生命(五陰世間)に確かに存在し、その大境涯は確かに脈打っているのだ」とのご指摘の通りです。法華経の行者になぜ難が起こるのか。諸天はなぜ守護しないのか、との開目抄の問い。さらに、石中の火、木中の花は信じることができても、三毒強盛の劣った人界から仏界を現ずることは信じがたい、との観心の本尊抄の前半の問い。

    これらの結論が示しているのは、普通であれば絶体絶命の大悪の状況を、大善へと転換する宿命転換の力こそ妙法の大きな力用ではないでしょうか。日蓮大聖人は忍難弘通の生涯を通じて、それを証明されました。それは、いかなる絶望的状況でも決して諦めない、不屈の希望力であり、現状は必ず変えられる、との現状変革の根本的エネルギーです。創価学会に脈打つその力こそ、世界広宣流布を現実にした一つの要諦なのです。
    (平30.10.10修正しました)

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