同中へ4名で参加

ひぼしにされた~云々の記事は、少し重かったでしょうか。
メンタル系はどうしても、様々の抑圧や葛藤、時には自他のひがみ根性とも向き合うことになります。
気を取り直して、ここで活動報告を1つ致します。

この前の日曜日に、ここ数年間ずっと対話している友人を、しばらく振りに同中へ参加させることができました。
同時に地区の壮年2名(うち1名は私の父)も連れ出し、計4名で友人と私の車2台に分乗して行ってきました。

友人は当初、参加の意志は無かったようですが、珍しく私の父と囲碁を打ったり話し込んだりして、父に促される形で参加してくれました。
会館では、たまたま同時間に参加していた圏長や副本部長と友人が、言葉を交わすこともできました。

特に未来部の出演者たちや、創大ロボ・SOBITを通じてのやりとりに、感銘を深くしていたようです。
内外合わせて3名も連れ出せて、1つ役目を果たすことができ、私も歓喜して帰宅しました。
ちなみに、その友人は、ここ1ヵ月位来る度に、勤行・唱題を一緒にすることができています。

大きな節目を通過するまであと1歩と捉えて、勇気ある前進をしていきます。

ご投票宜しくお願いします↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村


ひぼしにされた人間はだめ人間である?(2)

引き下げの心理の他に「投影」といって責任を相手にぶっつける心理がある。

ある会議に部下Aを招くのを忘れていた上司が
「お前のスケジュールが分からないもので声のかけようもなかった」
という。
部下Aは「すみません」と答える。
部下はいかにも自分が悪いことをしたように思ってしまう。
無計画に出たとこ勝負ですぐ会議を開く自己中心的な上司の責任は不問のまま、部下にのみ責任を求めるのは、責任回避の策である。自分の責任を人のせいにする方法を投影という。

人の投影に気づかないと自己をせめることになる。
自分をせめすぎると「うつ状態」になる。
それゆえ、頭を使って
「本当に私は悪いことをしたか。上司・先輩・同輩・後輩のそれぞれにも責任はないか。私一人が自己反省するのは妥当か」
と自問自答することである。

(中略)
自分は上品ぶって人とけんかもせず、その不満をカウンセラーや親に語り、カウンセラーや親に問題解決にのり出してもらうという姿勢はきわめて欺瞞【ぎまん】でわがままである。
おとなとは、自分の問題は自分で解こうとする人のことである。

さらに人をひぼしに追いやる人間には、人を辞めさせたいのだが「辞めてくれ」というのは嫌なので、故意に人の嫌がる仕事を押し付けることがある。

遠方に通勤、早朝に出勤、気難しい上司の下に配属、特別の能力を要する事務を担当、など。
すると当人はいや気がさして辞めていく。つまりマイルドないやがらせである。

ところがどう考えても、自分に落ち度があった、自分が馬鹿だった、ひぼしにされて当然である、と判断せざるを得ないこともあるが、それでもなおかつ、自分はだめ人間である、自分の人生はこれで終わりだと考えるべきではない、と筆者は言います。

1つは、自分はだめだったと百万遍自分をせめたところで心境に変化が生じる訳ではなく意味がありません。
そこで「今後、同じような失敗を再び繰り返さないためには、自分はどうしたらよいか」を具体的に考えるのです。

ひぼしになった原因がどう考えても自分にあると思う場合に、落ち込まないための2つ目の処方箋は、人格と行動は別物であるとの考えを持つことだと指摘しています。
「私はだめ社員です」と人格を評価するのでなく、「私の働き方は下手でした」と行動を自己評価する言葉にするのです。

人格を自己評価している訳ではない。
販売が下手、収支決算表の作成が下手、朝礼の挨拶が下手、電話の応対が下手。
「だからといって」その人は人間としての値打がないとはいえないのである。
イエス・キリストがワープロが打てず、車が運転できないからといって「だめ人間」と思う人はいないのと同じである。
給料は自分の人格に支払われているのではない。
自分の役割(パフォーマンス)に支払われている。
ゆえに役割がこなせないとお払い箱になるかもしれないが、かといって人格がお払い箱になったのではない。これをきちんと自分に言いきかせる必要がある。

医学は血が噴き出しているようなケガを治すことができます。
これに対して人間は誰しも「こころ」を持っているにも関わらず、こころの動きや感情を軽視してしまいがちです。
もしかすると貴方のこころは傷つき、あたかも血を噴出しているような状態かも知れません。
そんな時に心理学やメンタル・ヘルスが役立ちます。
その第一歩は、自他の心について知識を深め、上手に活用できるようになることだと思います。

時には足かせともなるように感じられる感情ですが、なぜ人間は感情を持っているのでしょうか。
それは人類が集団行動で生き残って来たことと、関係が深いようです。
霊長類である人間は、腕力が弱い分、仲間同士で助け合い、集団で行動するために、緊密にコミュニケーションする必要があり、共感力等、豊かな感情が備わったと考えられます。

仏法はより根源的に生命の因果を明かした教えです。
今日の心理学の領域に踏み込んだ、深い知見も数多く見られとともに、それら科学を始め一切の人間の営みを指導する哲学でもあります。
今回紹介した本は21年前のものでかなり古いですが、また1つ収穫が得られました。

ご投票宜しくお願いします↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村


ひぼしにされた人間はだめ人間である?(1)

「イラショナル・ビリーフ」という用語がある。
国分康孝さん著の『自己発見の心理学』という本に出てくる用語です。
氏は哲学博士であり、カウンセリング心理学の専門家です。

さて「イラショナル・ビリーフ」ですが、例えば「私は失業した。ゆえにもう生きられない」というビリーフがそれです。
ビリーフとは考え方、あるいは受けとり方を意味し、英語ではBeliefと書きます。

「失業した」という文章と「もう生きられない」という文章とが、どうしても結びつかなくてはならない必然性はあるか、と自問するのである。
「失業した。ゆえに失業保険で当分暮らそう」
「失業した。ゆえに次の職を探そう」
「失業した。ゆえにこの機会に少し静養しよう」
「失業した。ゆえに父の家業を継ごう」
といった具合に、「ゆえに」のあとに続く文章はいくつでもある。
いくつもあるのに、よりによってみじめになる文章を任意にえらび、いかにもこれが人生の真理のように思い込んでいる。
これはまともなビリーフではない。イラショナル・ビリーフである。

悩みの下にあるイラショナルな文章記述を発見し、それをラショナル(=合理的)な文章記述に変えることが、悩みから脱却する方法であると筆者は提唱している。
「こうあるべきである」「こうあらねばならない」との考えが、いかに思い込みであり錯覚であることが多いか、ということを人生の様々の局面を挙げて、解きほぐしているのが本書です。
中でも私が一番興味深く読んだのが「ひぼしにされた人間はだめ人間である」の章です。

「ひぼし」とは周りから低い評価を受けて、仲間はずれにされることである。
職場での村八分である。
気の弱い人間は、自分の人生もこれで終わりだ、自分は欠陥人間らしい、辞めるか死ぬかのほかに打開策はないと思いこむ。

考え方を工夫するポイントとして筆者は3つ指摘する。
第1は、私をひぼしにした上司は私を正当に評価していない! と答えるのが普通ですが、これは上司と私の価値観は異なって当然であるということを見失っているのです。
私に上司の価値観をえらばない自由があるように、この上司も私の価値観をとり入れない自由があるのです。
価値観が違うからといって一日8時間を共有できない訳ではないし、私生活まで支配されている訳でもないし、世も末な訳ではないのです。

第2のポイントは、ひぼしにする側にこそ、何らかの心理的問題がある場合です。
ニワトリ小屋に新しく入れられたニワトリを古参ニワトリがいじめるのと似ています。

これは「引き下げの心理」といって、古参社員が新入社員に劣等感を持った場合、自分たちの劣等感を消すために、新入社員にケチをつける心理である。
いじめられる方にすれば、自分が至らない人間だから・・・・と反省もしたくなるが、実はいじめる側が至らない人間なのである。したがって自己非難、自己卑下、自己分析するよりは、心密かに相手方を分析し卑下し非難した方が理にかなっていることがある。
上司・先輩を批判すべきではない、と模範生徒ぶらない方がよい。
「彼たちは今、私に引き下げの心理を向けている」と見抜いて、なるべく相手の劣等感を刺激しないようにする。しかし全く刺激しないですますわけにはいかない。
そこは居直ればよい。


ご投票宜しくお願いします↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村


脳科学からみた「祈り」 について

つい先ほど『脳科学からみた「祈り」』という本を読了しました。
フランスのある研究所で博士研究員をしていた著者が、最新の脳科学の知見を駆使しながら「祈り」について考察した本です。
ここでは1つだけ、印象深い部分を抜粋いたします。

生涯を利他行動に捧げた人のことを、人はとかく「自己犠牲に徹した生涯」ととらえがちです。
しかし私は、「自己犠牲」という言葉はちょっと違うと思います。
自己犠牲というと、「自分は苦しみながら人のために尽くす」というイメージになりますが、利他行動は何より自分の喜びであり、楽しみでもあった。
ヘルパーズ・ハイや深い幸福感に満ちていたに違いないのです。

本当の利他行動は深い喜びをもたらす、との知見を著者は、「愛情ホルモン」「愛の神経伝達物質」などと呼ばれるオキシトシンによって論を起こしています。
その他にも、最新科学の成果を紹介しながら、祈りについて解りやすく述べられています。
活字もかなり大きく、紙数としても手に取りやすい薄さで、配者にも配慮された作りの本です。

人の不幸を祈る=呪い が実は、祈っている人自身の脳や体にダメージを与える脳内物質を、多く分泌させるとの指摘も面白い。
脳内物質についての話しが、人類の進化や仏法の縁起にも発展・展開していき、新しい視点を数多く提起してくれるのが有り難い。
祈りを掘り下げてみたい方は、ぜひご一読をお勧めします。

ご投票宜しくお願いします↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村


夕張炭労事件55周年(2)

2.夕張炭労事件について

(以下は、随筆・新・人間革命にからの文章です)

1957年(昭和32年)の6月のことである。

事件は、炭鉱の街・北海道夕張で起こった。
前年の7月に行われた参議院選挙で、夕張炭鉱の学会員が、学会推薦の候補者を推(お)したところから、炭労(炭鉱労働組合)は、「統制を乱した」として、学会員の締め出しを図り、公式にも”対決”を決議したのだ。
いわゆる「夕張炭労事件」である。

当時、炭労といえば、「泣く子と炭労には勝てない」といわれるほど、組合員に対しては、絶大な権力を誇っていた。
それまでにも、何人もの同志が、事務所に呼び出され、「信心をやめなければ、組合をやめてもらう」と、迫られた。組合を除名になることは、そのまま、失職を意味していた。
学会員というだけで、村八分同然の仕打ちを受けた。
親ばかりでなく、子供までもが除け者(よけもの)にされた。
悪質なビラが、電柱や家の壁に張られた。有線放送でも非難・中傷が流された。
労働者の権利を守る組合が、「信教の自由」を侵(おか)し、人権を踏み躙(にじ)るという、転倒であり、卑劣なる暴挙であった。

私たちは、激怒した。
そして立ち上がった。
”愛する同志を、断固として守ろう! 断じて勝ってみせる!”と。

6月28日、若き獅子は、北海道に飛んだ。
先生のお体の衰弱は、既に甚だしく、私は、師に代わって、いっさいの学会の責任を担う”船長”の立場にいた。

既成の権力が、非道な弾圧を仕掛けるなら、われらは正義の旗のもとに立ち上がる!
不屈の勇気を燃え上がらせる!
私は、信仰に励む健気な庶民の家々を駆け巡り、訴え抜いた。

「同志よ、共に戦おう!」
「絶対に、負けてはならぬ!」

6月30日東京で結成されたばかりの学生部諸君が後に続くことを信じ、「札幌大会」と「夕張大会」が行われた北の天地で、炭労への抗議の矢を放ち、決然として宣言した。
「わが学会は、日本の潮(うしお)であり、その叫びは、獅子王の叫びである!」と。

やがて炭労側は、学会員を排除しようとする闘争方針を改めていくことになる。
民衆の真実の団結と雄叫びが、傲慢な弾圧を打ち破ったのである。
御聖訓には、「始めは事なきやうにて終(つい)にほろびざるは候はず」(御書1190p)と。
強大な力をもった炭労も、やがて衰え、時代の表舞台から去っていった。

大阪府警から、私に出頭の要請が来たのは、この北海道の激戦のさなかであった。
四月に行われた参院大阪地方区の補欠選挙で、一部の会員のなかから選挙違反の容疑者が出たことから、支援活動の最高責任者であった私に、出頭せよというのである。
そこには、創価学会という新しき民衆運動を恐れ、打ち砕こうと動き始めた、国家権力のどす黒い意図があったことはいうまでもない。

蓮祖は仰せである。
「願くは我が弟子等は師子王の子となりて群狐に笑わるる事なかれ」(同1589p)と。
われらは、背信の輩(やから)が勝ち誇るような時代を、断固、変えねばならぬ。
無名の庶民の真の英雄たちが、人生の勝利の賛歌を、高らかに謳い上げていける時代をつくらねばならぬ。
そのためには、何ものにも、臆せず、動ぜず、忍耐強く、断じて戦い抜くことだ!

※出典
1) 人間革命 第11巻 夕張の章
2) 随筆・新人間革命
3) 北海道広布40年史

ご投票宜しくお願いします↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村