立正安国論と三災七難(2)

彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには。
(御書p24)

(災難を根絶するには)かの千万の祈りを修するよりは、この一凶である法然の謗法を禁じなければならない、との仰せです。
その具体的方途として本抄では、
「謗法への布施を止めよ」
とご教示されているのです。

この御文では謗法の代表格として念仏宗を挙げ、一凶と断じられていますが、今この時の一凶はなんでしょうか。
できもしないことをさもできるかのように嘘を重ね、多くの民衆の期待を裏切り、政治を混乱させ深刻な政治不信を与えた民○党が、国に与えた損失は大き過ぎます。
それにも関わらず、只々、保身しか頭になく、政権にしがみ付くしか考えていないのです。
この意味で、現在の一凶=民○党 という図式が成り立ちます。

そして「謗法への布施を止める」とは、民○党に票を投じない、ということだと私は強く思います。

一方、公○党は地方では、自民も民主も上回り第一党なのをご存知でしょうか。
その「チーム3000」とも言われるネットワークを縦横に活かして、地方の声を聴き、国政に届けてもいます。
公○党は結党以来400万件を超える市民相談を行ない、徹底して国民・市民の声を政治に結実させて来たのです。

「国民主権」の現代ですから、政治家を選ぶ権利を持つ国民1人1人が、賢明な上にも賢明に1票を投じるべきです。
『立正安国論』は時の為政者である執権・北条時頼に提出されました。
しかし現代は、真の意味での為政者は、われわれ国民1人1人なのです。

やはり何を言っても、菩薩界・仏界を体現した政治家を送り出すとの主旨からも、公○党が勝つしか、真の社会の平穏も繁栄も無いのです。

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立正安国論と三災七難

日蓮大聖人のご生涯は
「立正安国論に始まり、立正安国論に終わる」
と言われます。

大聖人が39歳の御時に時の最高権力者・北条時頼に提出され国主諫暁したことにより、大聖人の御一生がある意味決まったとも言えます。
61歳でご入滅されるまで四度の大難、中小の数々の難が襲いかかり、忍難弘通の御一生を送られる一切の始まりが、『立正安国論』提出であったのです。

大聖人自ら『立正安国論』を数回書写されており、何度も何度も再確認と深化を重ねられていきました。

晩年も令法久住(りょうぼうくじゅう=法をして久しく住せしめんがため)のため、身延の地で若い弟子たちに、大聖人自ら何度も講義を行なっています。
何よりも大聖人のご一生そのものが「立正安国」を実現するために、奔走し戦い続けた、そのご連続だったのです。

正に、権力に潜む魔性を打ち破るため、国土・社会の安穏と民衆の真の幸福を確立するため、立正安国論とともに大闘争を開始され、最晩年に至るまで徹して貫き通したご一生でありました。

「立正安国」の国とは日本一国に留まるものではなく、全世界の平和と安穏を実現する普遍性を持つ教えです。

世皆正に背き人悉く悪に帰す、
故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、
是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る、
言わずんばある可からず恐れずんばある可からず
(御書p17)

世の人々がみな正法(法華経) に背き、ことごとく悪法に帰している。
ゆえに、守護すべき善神は国を捨てて去ってしまい、聖人は所を辞して帰って来ない。
このため魔神・鬼神がやって来て、災難が起きるのである。

任王経に云く
「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る
(中略)
若し一切の聖人去らん時は七難必ず起らん」
(御書p19)

ここで鬼神とは思想のことです。
国土が乱れる時はまず思想が乱れる。
ゆえに万民が乱れ、万民が乱れるがゆえに国土が乱れ災難が起こるのである。

ここで「三災七難」の1つ1つを見てみましょう。

三 災 (小の三災)
1.兵革災  ひょうかくさい=戦争のこと。
2.疫病災  えきびょうさい=伝染病・流行病がはやること。
3.穀貴災  こっきさい=天災等によって五穀が実らず、飢饉が起こること。

七 難 (諸説あるが、ここでは「薬師経」の七難)
1.人衆疾疫難 にんしゅしつえきなん  =伝染病が流行して多くの人が死ぬ難。
2.他国侵逼難 たこくしんぴつなん   =他国から侵略される難。
3.自界叛逆難 じかいほんぎゃくなん   =仲間同士の争い。同士討ちをいう。
4.星宿変怪難 せいしゅくへんげなん  =彗星・流星があったり、星の運行に異変を生じたりすることは、当時は社会、国家に凶事の起こる予兆とされた。
5.日月薄蝕難 にちがつはくしょくなん  =黒点、暈(かさ)、日食、月食などのこと。
6.非時風雨難 ひじふううなん       =季節外れの暴風があったり、梅雨期でないのに長雨が続いたりする等の気候異変。
7.過時不雨難 かじふうなん        =雨の少ない季節を過ぎて雨期に入っても、なお雨が降らないこと。

特にこの記事を書いている今、もの凄い暴風が外で吹き荒れており、それが書き始めようと思ったきっかけの1つでもあります。
そこで悪風の難と水の難だけを、特に詳細に見てみたいと思います。

大水百姓を漂没(ひょうもつ)し・時節返逆して・冬雨ふり・夏雪ふり・冬時に雷電霹靂(らいでんへきれき)し・六月に氷霜雹(ひょうそうはく)を雨(ふ)らし・赤水・黒水・青水を雨らし士山石山を雨らし沙礫石(さりゃくせき)を雨らす江河逆に流れ山を浮べ石を流す是くの如く変ずる時を四の難と為すなり、

大風・万姓を吹殺(ふきころ)し国土・山河・樹木・一時に滅没(めつぼつ)し、非時の大風・黒風・赤風・青風・天風・地風・火風・水風あらん是くの如く変ずるを五の難と為すなり、
(御書p19)

 

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千尋の谷

昔、『巨人の星』というアニメを繰り返し見たのを思い出す。
帰宅部ということもあり、再放送されるたび、何度も何度も繰り返し見た。
スポ根ものの元祖といわれる。
その中に次のくだりがある。

百獣の王である師子は、我が子を千尋【せんじん】の谷に突き落として、這い上がって来た者だけを育てる、のであると。

この同じ言葉を、池田先生が学園生に対してであったか、語っていたのを何かで読んだことがある。
思わず『巨人の星』で聞いた言葉だ、と唸った記憶がある。
昔から言い伝えられた何かの説話なのか、と思ったものだ。
何か古めかしく違和感を感じないでもないが、本当に単なる古臭い考えに過ぎないのだろうか。

百獣を統【す】べる王である師子は、誰よりも強くあることを宿命づけられた存在である。
我が子に対して、心から大成長を願い使命を自覚させたいが故に、冷酷なまでに心を鬼にして、試練を与え育てようとの厳愛なのだ。

仏法においても爾前権経では、衆生の機根に合わせて法を説くので「随他意」と呼ぶ。
例えて言えば、幼子に対して思い通りに甘えさせて育てる方法であろう。
別の言い方をすれば「母の愛」である。

これに対して、法華経は衆生の機根に合わせるのではなく、仏の悟りをそのまま説いた「随自意」の教えである。
これは「厳父の愛」である。
上の、「師子と千尋の谷」の話しは、こちらに当てはまる。

信心とはある意味、この説話と同じだと思う。
まず、厳しき大難・試練に突き落とされる。
(ただし、仏が意地悪をして突き落とすのではない。
意地悪な仏などいない)

そしてその試練を乗り越えていく者が、ある意味、仏から真の仏弟子として認められ、さらなる訓練を受ける資格を得る。
汲めども尽きぬ仏の智慧を得ていけるのである。

自らが「まことの時」の大難に、強盛な信心で乗り越えていく、上の例で言えば、千尋の谷を登り切る師子の子であり続けるとともに、人材育成の1つの考え方も提示していると思う。

下の動画は「師子と千尋の谷」と関係ないが、動画が無かったため、とりあえず載せたものである。

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唱題 約10カ月で168万遍達成

毎日せっせと記事を書けているが実際は、生活面で多少負荷が増している。
商工会議所主催の「自動制御・シーケンス技術講座」というのを、2日にわたって6時間半×2日(昼休み含まない)を受講したり、座談会など連日の会合に参加したためだ。

ところで、今日、今までの唱題を集計してみた。
写真の書類は、唱題の集計作業の様子である。

集計結果は、今年は約10か月経ったが168万遍あがった。
通算としては3年と約10カ月で768万遍を完遂した。

数や時間も確かに大事である。
しかし題目は、単なる形式ではない。
単なる数さえあげればいい、時間さえ長ければいいというものではない。

どこまでも一念のこもった唱題、具体的には、今この時の学会の戦いにしっかり呼吸を合わせ、友人や会員のことを1人1人顔を思い浮かべて祈るのだ。
獅子奮迅の思いと行動で、しっかりと広宣流布の戦力にまず自分がなっていくのだ。
そういう思いで戦いを改めて開始しました。

題目は形式ではない、ということをもう少し掘り下げてみよう。
あくまで「形式」だけを取ってみれば、学会と極悪日顕宗とは、題目も御本尊もほぼ同じである。
厳密に言えばいろいろと論点はあるが、ここでは触れない。

では学会と宗門とは何が違うのか。
いろいろと挙げられると思うが、ここでは何点かに絞る。
1つは広宣流布のための題目であり御本尊であり、その行動が学会には漲っている。
広布と言っても、ではいったい何を弘めるのかと言えば、平和・教育・文化・人権の運動を通して、立正安国の思想を基調にこの世から悲惨を無くし、身近な1人から全人類までを幸福にしゆく戦いである。

宗門にはこの正しい理想も目的も無い、真の指導者(師)もいない。
信者は供養集めの対象でしかなく、本尊も供養集めの道具に利用しているだけである。
広布破壊に盲進する極悪集団に成り下がってしまったのである。

日顕宗・宗門は、ネズミを狙う猫が細目でみてそっと歩くが如く、卑しい魂胆をひた隠しにして、信者から供養をむしり取ることばかりに血道を上げているのである。
勤行も供養収奪のための商売道具の1つに過ぎないのだ。

その正体は「懶惰懈怠  らんだけたい」であり、「遊戯雑談  ゆげぞうだん」そのものである。
広布の赤誠のカケラも無い、堕落し怠け切った姿であり、「遊戯雑談」に明かし暮らす「法師の皮を着た畜生」である。

悪は正義に似ていればいるほど、その罪は重く、極悪となる。

偽札が本物に似ていればいるほど、罪が重いのと同じである。
まさに「広布破壊の極悪」の存在に堕したのである。

それに対して学会員は俗でありながら、ある意味、僧以上の真剣さで、この厳しい社会の中で日々、生活闘争を為しつつ、くたくたに疲れた身体に鞭打って、悩める友のために、広布のためにと奔走(ほんそう)し、来る日も来る日も勤行・唱題を勇んで行じている。

こうして見てくると、学会員であることがどれほど凄いことか。
どれほど大きな福運が具わっているか。
学会のこの上ない正しい題目に合致するよう、怠りなく、今日よりは11・18そして来年の総本部完成を目指し、着実に前進していきます。
また長文になりスミマセン。

(一部加筆・修正しました 12年10月23日)

 

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