大王よりも勝れたり

昔、私が感動をもってお聞きした、先生が講義された御文があります。

法華経を持つ人は 男ならば何(いか)なる田夫(でんぷ)にても候へ、
三界の主たる大梵天王・釈提桓因(しゃくだいかんいん=帝釈天)・四大天王・転輪聖王・乃至・漢土日本の国主等にも勝れたり、
何(いか)に況(いわん)や日本国の大臣公卿・源平の侍(さむらい)・百姓等に勝れたる事申すに及ばず、

女人ならば喬尸迦女(きょうしかにょ)・吉祥天女・漢の李夫人・楊貴妃等の
無量無辺の一切の女人に勝れたりと説かれて候、
(松野殿御消息p.1378)

男であれば、法華経を持った男は、いかなる立場にあろうとも、梵天・帝釈やあらゆる大王、国主等にも勝れていると仰せです。
女であれば、世界の三大美人よりも一切の女人よりも勝れている、との仰せです。
今一度、このことを解りやすく文章にしてみたいと思います。

この御本尊と創価学会に巡り会えたということは、もともと、大王のような境涯で何不自由なく自在な人生を送れる福運を持っているのです。

虚空会という所で大聖人が聞いたのです。
「あなたは、例えば一国の大王になれますよ、どうですなりたいですか?」

それに対して私たちはこう答えた。
「いえ、大王なんてつまらないです、遠慮させていただきます。
 私は創価学会員として妙法を弘めていきます。
 そのために○○の悩みをすすんで背負って生れます。
 これは私の誓願です。それが最高の大歓喜の生きかたです」

病気の悩み、仕事・お金の悩み、家庭不和、その他ありとあらゆる悩みがあるのは、
「私は○○の悩みを持ちます!
 折伏して乗り越えていって多くの人を救います!」
と自ら、過去世(虚空会)で誓ってきたのです。

最高の人間革命のドラマを演じる舞台設定なのです。
折伏をしながら乗り越えていけるのです。
妙法の功力を教えていくんです。
そのための今の悩みであり、自他共に真実の幸福をつかむための、方便=手段なんです。
秘妙方便とも願兼於業(がんけんおごう)とも呼びます。

自分から進んで選んだ悩みなのですから、誰が悪いのでもない、自分が悪いのでもない、自他を責めたり恨んだりする必要はありません。
人を救うために自ら願って背負(しょ)ってきた悩みなのですから、克服できないはずがないのです。

創価の御本尊の仏力・法力を自由自在に実証して、多くの友と共にこれ以上ない幸福境涯を必ず満喫していけるのです。
その私たち学会員が持つ「生命の位」と絶大な福運を思い出して、来年も歓喜踊躍して戦っていきましょう。
本年もご声援ご愛顧ご指導を誠に有難うございました。

ご投票宜しくお願いします↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村


闇が深ければ深いほど暁は近い

この時期、私事ですがある意味行き詰まっています。
折伏面で、経済面で、仕事上で、一家和楽建設で、と多方面でがんじがらめな感じです。

しかし考えようによっては、これもいつものことです。
何か広布の戦いが開始された時、行き詰まりから出発するということは、戦いの度に経験してきました。

この行き詰まりを打破していく中に戦いがあります。
行き詰まりと戦っていく中に、面白みもやり甲斐も生まれます。
行き詰っているなら、戦って打開していけばよいのです。
いかなる行き詰まりをも突破していける創価の御本尊なのですから、何も嘆く必要は無いのです。
朗らかに戦って、新たな体験を積み、人にもシェアしていく(=分配する。体験を伝える)時が来たのです。

1人の勝利も、その人の自己満足で終わってはたった一つの功徳に過ぎない。
しかしその勝利の体験を発表して、多くの人で分かち合っていけば、100人とシェアすれば功徳もある意味100倍となり、1000人とシェアすれば1000倍となるのです。

戦いに苦労はつきものです。
「学会の広宣流布の前進に楽に出来たものなど1つもない」(趣旨)と先生は仰っています。
要は同じ戦うなら、楽しく戦うことができるかどうかです。

闇は深ければ深いほど黎明【れいめい】は近い
のです。
冬は必ず春となるのです。

どんなに厳しく見える苦闘の闇や冬であっても、いや闇が深いほど寒冷が強いほど、夜明けや春も近づいているのです。
大きな大海原のような心で、楽しく朗らかに前進していきます。

(動画はクラシックギターの制作です)

ご投票宜しくお願いします↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村


もし折伏が簡単にできてしまったら

以下はあくまで仮定の話としてお読みください。

私などは余りに折伏が難事で、挑戦に挑戦を重ねても出来ないものだから、
「なぜこんなに難しいのか? どうしてもっと簡単に出来ないのだろうか」
と、ついつい泣き言交じりの溜息が出ることがあります。
皆さんも似たような経験はないでしょうか。

しかし考えてみてください。
もし折伏がほとんど苦労もせずに出来てしまっては、どうなるでしょうか。
そんな折伏にいったい何の価値があるのでしょう。
した方もされた方も、人間としての成長はまったく無いでしょう。

もし簡単に折伏出来てしまったら、その後、必死になってその人の面倒を見て、一人前にしようとの行動ができるはずがない。
受けた方も、御本尊の有難さ・凄さが全く解らず、極端な話し、掛け軸でももらったような自覚しかなければ、結局、粗末にしかねず却【かえ】って堕地獄の因を積ませてしまう場合もあるかもしれません。

もっと極論をすれば、
「ウチはまた折伏されたんだよ。 これで4体目の本尊持ったよ」
といったことになり、どこかの邪宗のように成り下がってしまうでしょう。
身延では、本尊が境内の売店で1体数千円で売られているそうです。
お土産代わりに本尊が買われているのです。

偽物の力無き本尊ならそれもいいでしょう。
しかし創価の御本尊は絶対の力があるゆえに、強盛な信心で拝せば絶大な功徳が現れ、逆に粗末にすれば明確な罰が現れます。

御本尊は自分の命と同じなのだ、との決定した信心を教えなければ、受持し抜いていくことはできません。
受くるはやすく 持つはかたし さる間 成仏は持つにあり
と御聖訓にある通り、受けるだけ、受けさせるだけなら、ある意味、容易【たやす】いとも言えるのです。

同じ持たせるなら功徳の引き出し方を、しっかり教えていくべきです。
そのためには折伏させるのが一番です。
草創期の頃は、入会数か月にも満たない人が、どんどん折伏をしていったのです。
今のように、入会10年、20年で1世帯もやってない、というのを聞くことがありますが、それでは真の歓喜も功徳も味わえないのです。

信心は年数ではないのです。
一念に勝つか負けるかの因があります。
肚を決めて戦い、御本尊にお褒め頂けるような行動ができた時、御本尊に感応し必ず折伏は成就します。
惰性や諦めに負けた一念では、結果を出すことはできません。

どこまでも、自分が祈った通りに叶っていくのです。
折伏して自分以上の一級の人材にする、と決めて強く祈れば、その通りに叶います。

周りの幹部や同志がうるさいから、とりあえず誰でもよいので1世帯、と祈ればそれが叶ってしまいます。
折伏して皆に拍手喝采を受けたいから1世帯、と祈れば、周りから賞賛を受けた後は、組織にも着き切れないような結果となってしまいます。

自分の一念は恐ろしいです、誤魔化しがききません。
ですから、本当の折伏がしたければ、相手の幸福をどこまでも真剣に祈り切っていくことしかありません。

改めて、今生人界の思い出となる、真の友人への聞法・発心下種にまい進していきます。


ご投票宜しくお願いします↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村


十界互具

十界とは生命の状態を10種類に分類したものである。

地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏

法華経以前の教えでは十界はそれぞれ固定的なものであり、例えば地獄界の者が餓鬼界に変化したり、人界に変わったりなどはできなかった。
しかし法華経に至って十界互具が説かれると、十界の1つ1つの界にさらに十界を具すことが明かされたのである。

つまり例えば、人界の衆生にも下は地獄から上は仏界までが、縁に触れて現われる。
人界に具わる地獄界、人界に具わる餓鬼界、・・・、人界に具わる菩薩界、人界に具わる仏界というようにである。
また、最高の境涯である仏界にも、地獄から仏界までが具わる。

では、なぜ人界や最高の仏界までもが、特に最低の三悪道の命を具えなければならないのだろうか。
例えば仏界に具わる地獄界は、広宣流布を進めるために苦しみ抜く境涯であろう。
仏界の餓鬼界は、広布のための大欲であろう。
仏界の畜生界は、広布のためとなる本能的行動であろう。

仏界に三悪道を具えるさらに別の理由は、苦悩に沈む三悪道の衆生に同苦し、苦を抜き楽を与えるためである。
つまり創価の信心を教え救っていくためである。

100%仏界が固まり他の九界の命が出てこなければ、これほど素晴らしいことはないように思うかもしれないが、それでは本当に苦しんでいる人々に同苦できない。
どうしても自分は安全地帯に居て、「救ってやろう」との上から目線になり、衆生からすれば「超然として悟りすました存在」 「自分たちとは違う、お高い人間」 にしか見えないであろう。

1人1人の悩みや性格に合わせて、自在に姿(言動)を変え深く関わって共感していく、いわば「応身仏【おうじんぶつ】」の働きが重要なのだ。
先生が身をもって示されてきた 「一人を大切に」 「民衆の中へ」 ということにも通じよう。

その意味で、三悪道・四悪趣の生命を離れて、本当の仏の力用を発揮することは、不可能とさえ言えるのである。
本当に苦しんだ人が幸せになれる信心である。
誰も味わったことのないような苦しみを乗り越えた人こそが、真に人を励ませるのである。

基底部の生命を、どこまでも仏界に強く鍛え上げながら、すべての苦悩の体験も生かし切っていくことのできる信心である。
少病少悩とも言われる如く、厳然と護られていることに感謝しながら、勇気凛々と進んでまいります。

ご投票宜しくお願いします↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村


禁煙から満3年

11月初めをもちまして、禁煙が満3年を経過しました。

なぜあんな悪習慣に何十年も染まってしまったのだろう、と今にして思えば不思議な気がします。
咳やタンも無くなり、呼吸もほんとうに楽になりました。
食べ物や物の匂いもよみがえりました。

時間革命の観点からも、たばこ1本吸うのに5分とすれば、
1本5分×1日30本=150分=1日2時間半
2時間半×3年間1095日=2737.5時間=約114日間

つまり生きている時間の約1割の時間を、たばこを吸うことによって浪費していることになるのです。

また金銭面ではどうでしょうか。
1日1.5箱×410円×3年間1095日=673,425円

3年間で禁煙によって節約できたお金は67万円を超えるというから驚きです。
けっこう良い自動車が1台買えてしまいます。

さらに上で述べた「失われた時間」の価値も金銭にして加算してみましょう。
例えば40代後半の平均年収が約480万円として、時給に単純換算してみます。
480万円÷年間出勤日数245日÷平均実働時間9.9時間≒1,979円

3年間で喫煙によって失われた時間は、1日30本吸う場合 2737.5時間でしたから、
2737.5時間×1979円≒5,417,512円
となり年収をはるかに超え約540万円の損失となります。

ただし1日30本全てを勤務時間中に吸った場合の損失金額です。
仮に30本の2分の1を勤務時間で吸った場合は、
540万円×(1/2)=270万円
と半分になります。

たばこ購入にかかる費用と合わせると、
673,425円+5,417,512円×(1/2)=3,382,181円

すなわち喫煙3年間の損失は合計 約340万円にもなるのです。

もちろんこれは健康被害があった場合の治療費等は含まない金額です。
3年でハイブリッド・カーが買える金額です。
改めて驚きですね。

「健康は失ってみて初めてその有難味が解る」
と言います。
お金には代えられないのが、自分は元より家族等の健康です。
広宣流布の大事な使命を果たしていくためにも、体を大事にしなければなりませんね。

ご投票宜しくお願いします↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村