魔との戦い ~御書三編

信心とは「魔との戦い」の異名であるとも言える。
ここでは、御書から三編を掲げ、次号の記事でポイントと思われることを述べたい。

されば法華経を信ずる人のをそ(恐)るべきものは
賊人・強盗・夜打ち・虎狼・師子等よりも当時の蒙古のせめよりも
法華経の行者をなや(悩)ます人人なり、

此の世界は第六天の魔王の所領なり
一切衆生は無始已来 彼の魔王の眷属なり、

六道の中に二十五有と申すろう(牢)をかまへて一切衆生を入るるのみならず
妻子と申すほだしをうち父母主君と申すあみ(網)をそら(空)にはり
貪瞋癡の酒をのませて仏性の本心をたぼらかす、
但あくのさかな(悪の肴)のみをすすめて三悪道の大地に伏臥(ふくが)せしむ、
たまたま善の心あれば障碍(しょうげ)をなす、
(兄弟抄p.1081)

設ひ等覚の菩薩なれども元品の無明と申す大悪鬼 身に入つて
法華経と申す妙覚の功徳を障(ささ)へ候なり、
何に況んや其の已下の人人にをいてをや、

又第六天の魔王或は妻子の身に入つて親や夫をたぼらかし
或は国王の身に入つて法華経の行者ををどし
或は父母の身に入つて孝養の子をせむ(責)る事あり、
(兄弟抄p.1082)

此の法門を申すには必ず魔 出来すべし
魔 競はずは正法と知るべからず、

第五の巻に云く
「行解 既に勤めぬれば三障四魔 紛然として競い起る
乃至 随う可らず畏(おそ)る可らず
之に随えば将(まさ)に人をして悪道に向わしむ
之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云、

此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり
謹(つつし)んで習い伝えて未来の資糧とせよ。
(兄弟抄p.1087)


法華経の行者をば第六天の魔王の必ず障(ささ)うべきにて候、

十境の中の魔境此れなり
魔の習いは善を障えて悪を造らしむるをば悦ぶ事に候、
(常忍抄p.981)

我等衆生は第六天の魔王の相伝の者
地獄・餓鬼・・畜生等に押し篭(こ)められて気もつかず
朝夕 獄卒を付けて責むる程に、

兎角(とかく)して法華経に懸(かか)り付きぬれば
釈迦仏等の十方の仏の御子とせさせ給へば、
梵王・帝釈だにも恐れて寄り付かず
何(いか)に況や第六天の魔王をや、

魔王は前には主なりしかども今は敬ひ畏れて、
あ(悪)しうせば法華経十方の諸仏の御見参にあしうや入らんずらんと
恐れ畏て供養をなすなり、
何にしても六道の一切衆生をば法華経へつけじとはげむなり、
(松野尼御前御返事p.1396)


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