日顕と山友を破す -約20年前の資料

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次の文章は20年以上前、私が男子部時代に、聖教新聞を参考に書いた研究発表です。資料としては古いものとなりますので、ご理解のうえお読みください。

 

『日顕と山崎政友を破す』

現在、聖教新聞で『太陽の仏法と創価の時代を語る』が、秋谷会長(当時)他副会長たちによって座談会形式で進められています。「太陽の仏法」とは悩める友、苦しむ友に希望の光を与えゆく日蓮大聖人の仏法であり、それを現代社会に展開し、実践している私ども創価学会の活動であります。

 

「怒りは善悪に通じる 」―――仏法破壊の日顕宗の大悪に対して、大いに怒り、断固邪悪を粉砕していこうではありませんか。仏法の十界論から言って、日顕と共通する悪の命が私自身の中にもあると思います。多かれ少なかれ誰にでもあると思います。その、自分の中にある悪の命を叩き出すためにも、極悪の正体を見破れる自分になっていかねばならないと思います。新聞での連載は10回を数え、これを数分程度で発表するのは不可能なので、ポイントを三つに絞って話をさせていただきます。

 

まず第一に、大慢法主・日顕と結託し、陰で操っている人間、稀代のペテン師・山崎正友という存在です。この日顕と山崎との悪の結託を、秋谷会長 いわく、「天魔と提婆達多が手を結んだ究極の悪の連合」であると。山崎正友とは元学会の顧問弁護士でありながら、自分で勝手に始めた事業がデタラメな経営で破綻し、約50億円もの負債を抱えた。それを学会に押し付けようとして、当時の北条会長から断られ、いよいよ追いつめられて、あろうことか学会を恐喝(きょうかつ)してきた。

 

裁判で懲役三年の実刑を受けたが、出所後“学会側の偽証(ぎしょう)で無実の罪に陥れられた”などと、逆恨みの大ウソをついている。山崎のインチキ性をよく表しているのが裁判の判決文です。山崎の供述を「信用できない」「信用し難い」と指摘した言葉が合計四十数回も出ているというのですから、裁判所公認の大ウソつきというのが山崎正友の正体であります。

 

この山崎と日顕とは、法主継承の問題でもめた昭和56年の「正信会」事件では、不倶戴天の敵同士であった。ところが、池田名誉会長を総講頭罷免した直後に、手のひらを返したように日顕の方から山崎にすり寄っていく。そして今では日顕は山崎を“軍師”として仰ぎ、その策略家としての能力を学会攻撃に使っているのです。北海道のSさんの人権侵害しかり、信平夫婦の狂言訴訟しかり。これらの裏で糸を引いているのは山崎正友なのです。

 

しかし、大恩ある先生に泥をかぶせようとする山崎の悪逆非道は、まさに現代の提婆達多そのものであり、「悪は多けれども一善にかつことなし」との大聖人の御金言の通り、仏法の上からも厳しい裁きが待っていることは間違いないのです。

 

二つ目に、学会が「御書根本」であるのに対して、日顕宗は「御書軽視」の教学ならぬ、”くるう”の「狂学」になり下がっているということです。それがよく現れているのが、日顕自慢の宗門御書「平成新編」に、何と900カ所もの間違いがあり、御書ならぬ“誤書”とあきれられている。また、今年春の本山での学習会のカリキュラムには天台教学がほとんどで御書の研鑽は皆無に等しかったという事実がある。このように宗門が長く天台教学漬けになっているのは、戸田先生や池田先生が築いた学会の教学があまりにも確信に満ちた素晴らしいものなのでそれに嫉妬して、学会教学に負けたくないという意識がある。それゆえ、学会員がやらない天台教学にいつしか傾斜していった。

 

副会長いわく、「そう。『御書を心肝に染め』ていないから、どこまでいっても、理屈の教学。ただ信者に難しいから有り難い。分からないから有り難い、と言っているにすぎない。それが日顕にとっては、一番、有り難い。だから、わざと難解そうに天台教学をこねくりまわして、信者を煙に巻いているにすぎない。」 「何のための仏法かという根本の一点で、日顕は完全に狂っている。法主の講義も所詮、商売道具にすぎない。」

 

戸田先生は叫ばれました。「信心は大聖人の時代に還れ。教学は日寛上人の時代に還(かえ)れ」と。
最後の三つ目に、宗門の狂いの一切の元凶は日顕にあるということです。反社会の日顕宗の醜い姿―――学会の友人葬に何やかやと難クセをつけ、葬儀、葬儀と騒ぐ日顕宗の坊主は、その葬儀で一体何をしてきたのか。

 

読経中の居眠りは日常茶飯事、“商売道具”の袈裟、念珠を忘れたり、御本尊まで忘れてくる坊主もいた。神奈川では預けた子どもの遺骨がコーヒーカップに入れられて返されたという考えられない事件もあった。遺骨や墓地埋葬をめぐる問題で検察庁に書類送検された日顕宗の寺は70ヵ寺以上にものぼります。抜苦与楽の慈悲の精神からはおよそかけ離れた、人の死を食い物にする“死の商人”と言う以外にないではありませんか。

 

その他にも宗門は乱れに乱れている。坊主が飲酒運転した上、それで事故を起こし、しかも逃走。果てに現場検証に身代わりを差し出すという事件が二度も起きている。また、「たとえ犯罪行為を犯してでも、脱出したい宗門」というのが所化たちの偽らざる心境だとか。結局、一切の元凶は日顕という人間の異常性にあることは疑いないのです。

 

幼少から宗門という特殊な世界で、しかも法主の子どもとして母親の溺愛を受けてわがままに育った。そして、社会との接点がほとんどないまま法主になった。その日顕の社会との唯一の接点が、戦時中の軍隊と、夜な夜な出かけた歓楽街だった。

 

本来、宗教者とは、その行動もまた“良き社会人”として社会の模範となる存在でなくてはならない。それが一宗の法主ともあろう者が、「捕まらなければ何をしてもいい」などと公言しているというのですから、信仰者失格、坊主失格、人間失格の、畜生以下の存在であるとしか言いようがない。

 

以上で研究発表を終わりますが、この研究発表で学んだことを自分の中に止めておくことなく、一人でも多くの人に語り、一日も早く日顕宗を撲滅できるようにまず自分が戦いを開始する決意です。
(平成9年9月17日 座談会 研究発表)

 

 

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