外資系企業へ就職 -人生の棚卸(3)

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5月3日おめでとうございます。この日を寿ぐように全国的にほぼ晴天となりましたね。昨日は身内3人にて、地元の公園へ桜を見に行きました。2,000本の桜が例年より早く、ちょうど満開でした。たっぷり時間をかけて、花見と散策を楽しみました。それでは、「人生の棚卸」シリーズの第3回目です。


 

初めて正社員として就職した時のことを話しましょう。この会社については、何度か体験でも述べてきましたので、未だ触れていない事柄だけに絞(しぼ)ることにします。

 

この会社をここではI会社と仮名で呼ぶことにします。I会社は1986年当時、全世界で社員が40万人、日本国内で2万人という規模の、大型コンピューターの多国籍企業でした。米国に本社があり、全世界に工場や研究所等を持っていました。学生部時代、信心を再発心して1年にも満たない私は、歓喜に燃えて唱題と仏法対話に励んだ功徳で、給与・福利厚生・知名度等、クラスで最も好待遇でI会社への就職を果たしたのです。

 

東京サミットの主会場や各国首脳の宿泊先ともなったホテルニューオータニにて、自身も含め新入社員1,000人の入社式が行われました。自分の勤務地は神奈川県藤沢市の事業所(工場)でした。国立の短大である高専卒業だったにも関わらず、配属は高卒の人と同じ製造現場でした。3年経てば製造技術等への異動が、希望に応じて可能とのことで、実際にそのコースに進んでいる高専の先輩がいました。

 

この数年前に、I会社の米国本社に対して、日本の財閥系メーカー等が産業スパイ事件を起こし、世間を騒がせたこともありました。自分の上司からは、「電車の中で仕事の話は一切しないように」「聞く人が聞けば何を話しているか解り、機密が漏れてしまうから」と箝口令(かんこうれい)が敷かれていました。セキュリティも厳重で、短期間でしたが製品開発部門で働いた時は、セキュリティ・ロックが3重のエリアで仕事をしたこともあります。

 

まず、工場の敷地内に入る時に守衛に社員カードを提示し、第2段階は工場建物内に入る時にIDカードの磁気情報で認証しないとドアを開けられません。さらに製品開発のエリアに入るには、IDカードの磁気情報とプッシュ・ボタンにて暗証番号を入れないと、中には入れません。新製品の販売時期やスペック等の機密情報は、不注意で外部に漏れた場合、数十億円を超えるような損害に及ぶ場合があるため、厳重に管理されていました。

 

外資系企業ということもあり、サポートで技術部門にいた時など、欧米人の社員も働いていました。隣のデスクの先輩にアメリカからの国際電話が、ふつうにかかってきて流ちょうな英語でやりとりしているのを聞いて焦った記憶があります。アフター・ファイブに、社内で英会話教室がレベル別に行われ、ネイティヴの講師に教わりました。また、自分が所属していた製造部門の課長クラスになると、長期のアメリカ本社への出張を経験していました。さらに、日本国内全社員から1年に2名が社費で米国プリンストン大学に留学できるということでした。

 

イメージ画像です

 

自分の具体的仕事は、大型コンピューター本体の出荷前試験でした。動作テストや、耐熱テストなどです。不具合があれば修理もします。技術部門にも行きましたが、この時はパソコン用ハードディスク(HDD)製造ラインの、ロボットを一台担当しました。クリーン・ルーム用の特殊ロボットでした。HDD用の試験装置を作ることも任されましたが、その後、体調を崩しやり遂げることができませんでした。

 

ここで、視点が大きく変わります。I会社へ入社のため北海道から神奈川県での1人暮らしを始め、学会の組織にも就きました。この地で、男子部班長の任命を受け、高専の同級生に弘経を実らせることもできました。自分のいた男子部組織の部長は、人づてに聞いたところによると、横浜の元・暴走族副総長で、地区リーダーは学園を卒業し神奈川県警機動隊をしている方でした。経歴は妙な取り合わせでしたが、2人とも誠実・個性的で良い先輩達でした。

 

ある夏に、部長が男子部の主なメンバーと一緒に、あの湘南海岸へ一泊で連れて行ってくれました。湘南ビーチ等で泳いだりスイカ割りや花火などに興じ、皆と一気に気心が知れたというか、距離がぐっと縮まった感がしました。よき思い出となりました。四者の方々も本当に良くしてくれました。引っ越して間もなく、会社から帰宅した時に、ドアノブに温かいおかずが提げてあったことが何度かあり、学会家族の温かさを感じました。

 

無理が重なったのと、宿業が出たのでしょう、入社3年でメンタルの病となり退職しました。休日のプライベートな時間に、同僚を仏法対話に周ったことが、部・課内から批判・迫害を受け、精神的に大変でした。ちょうど初めての弘経が成就した直後でもありました。多くの方々に心配をかけてしまったことは申し訳なく思いますが、それは、宿命転換の道へ、確実に歩みを開始した時でもあったのです。神奈川での3年間は、その後の職業人生にも大いなる刺激を与える、貴重な体験となりました。また、信心の基本を学び、初の折伏成就をさせて頂いた地という意味でも、私の「第二の故郷」とも思っています。

(R6.5.5 記憶違いのため、記載のホテル名を修正しました)

 

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