項羽と劉邦

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日本の戦国武将(イメージ画像)

 

 

「天下分け目の戦い」といえば関ケ原です。実は、そこから遡(さかのぼ)ること1,800年、中国を二分し「項羽と劉邦の戦い」が繰り広げられたのをご存じでしょうか。この8年間に及んだ戦いに勝利した劉邦(りゅうほう)が建国したのが、あの漢王朝です。

 

天下第一と謳(うた)われた鬼神のごとき常勝の項羽(こうう)が、一地方の警備員から身を起こしたに過ぎない劉邦に敗れたのです。部下を深く愛し礼をもって遇した貴族出身の項羽に対し、劉邦は性格も粗野ですぐに相手を罵倒してしまう。どう見ても勝ち目がないように見える劉邦が、なぜ勝利を収めることができたのか。これに関して、先生のご指導を学びましょう。


 

 

第五回中部総会・第二回全国女子部幹部会 1990-10-10

何が勝負を決するか

さて、項羽と劉邦の戦いは、激戦に次ぐ激戦の果てに劉邦が勝利を収めた。『十八史略』(陳舜臣『小説十八史略』2、毎日新聞社、参照)によれば、漢帝国の王者となった劉邦は、洛陽の都で宴をもうける。彼は多くの将軍たちをねぎらいながら、こう問いかける。

 

「皆の率直な意見を聞かせてほしい。なぜ自分が天下を取ることができたか。また、なぜ敵の項羽は天下を失ったか」と――。

 

ある者が答えた。「王(劉邦)は城を攻め、領地を得ると、功績によって皆に気前よく与えられました。天下の人と利益を共有されたのです。だから天下を得たのです。それに対し、項羽は功労のある者に、かえってつらくあたり、賢者には疑いの目を向けました。戦いに勝っても、その功績を人に与えず、土地を手に入れても、その利益を独り占めにしました。だから天下を失ったのです」――。

 

漢の国が天下の多くの人々によって支えられていることを、確かに劉邦は知っていた。(中略)このように、部下たちは、いわば劉邦の度量の大きさ、気前のよさに、勝利の因があったと見ていた。これを聞いて、劉邦自身は、こう語りはじめた。

 

「諸君は一面だけを知って他面を知らない。はかりごとを帷幄(陣幕)の中でめぐらせ(作戦を綿密に打ち合わせ)、勝利を千里の外に決する(千里の遠方にいながら勝利を決する)手腕では、私(劉邦)は張良(ちょうりょう)にかなわない」

 

張良は劉邦の名参謀であり、たいへんな知恵者であった。(中略)劉邦は続けて語る。

 

「また、国内を安定させ、人民を大事にし、経済をうまく運営して食糧を確保していくという点においては、私は蕭何(しょうか)にかなわない。さらに、百万の大軍を率いて、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず取る(成果を出す)ということでは、私は韓信(かんしん)にかなわない。

 

この三人は、いずれも傑出した人材である。ただ私は、この三人の人材をよく使いこなすことができた。これこそ、私が天下を取れた理由である。ところが敵の項羽は、范増(はんぞう)という優れた人材がいたにもかかわらず、その一人すら使いこなせなかった。これが私に敗れた理由だ」と――。

 

この劉邦自身による勝因の分析は、何を示唆しているだろうか。まず第一に、「知恵の勝利」であった、という点である。張良・蕭何・韓信という三人の将軍は、個別の能力では、大将である劉邦を上回るほどの逸材であった。しかし、この三人の力量を存分に発揮させ、勝利に結びつけていく「知恵」が、劉邦には備わっていた。「知恵」の力が、その人間的な魅力と相まって、彼を”将の将”ならしめたのである。

 

何事も、「知恵」が勝利のカギである。知恵ある人は一切を使いこなせる。先手を打てる。臨機応変である。マイナスをもプラスに転じる。「力」は有限であるかもしれないが、「知恵」は無限である。広宣流布の展開も、一面は激烈な”知恵の戦い”である。そして強盛なる「無二の信心」に「偉大なる知恵」が備わってくる。現実に局面を開き、価値を創造する知恵こそ、信心の重要な証明なのである。

 

第二に、勝敗を分けたのは「チームワーク」「団結」の差であった。それぞれの部署で、それぞれの優れた人材が持ち味を生かし、またつねに綿密な連携を取り合い、呼吸を合わせながら、スクラムを組んで進んだことであった。これは、多くのスポーツや、社会のあらゆる団体にも共通する”勝利への要諦”である。これまでの学会の勝利も、このチームワークの勝利であった。
(池田大作全集第75巻所収)

 

 

 


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