もし折伏が簡単にできてしまったら

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以下はあくまで仮定の話としてお読みください。

私などは余りに折伏が難事で、挑戦に挑戦を重ねても出来ないものだから、
「なぜこんなに難しいのか? どうしてもっと簡単に出来ないのだろうか」
と、ついつい泣き言交じりの溜息が出ることがあります。
皆さんも似たような経験はないでしょうか。

しかし考えてみてください。
もし折伏がほとんど苦労もせずに出来てしまっては、どうなるでしょうか。
そんな折伏にいったい何の価値があるのでしょう。
した方もされた方も、人間としての成長はまったく無いでしょう。

もし簡単に折伏出来てしまったら、その後、必死になってその人の面倒を見て、一人前にしようとの行動ができるはずがない。
受けた方も、御本尊の有難さ・凄さが全く解らず、極端な話し、掛け軸でももらったような自覚しかなければ、結局、粗末にしかねず却【かえ】って堕地獄の因を積ませてしまう場合もあるかもしれません。

もっと極論をすれば、
「ウチはまた折伏されたんだよ。 これで4体目の本尊持ったよ」
といったことになり、どこかの邪宗のように成り下がってしまうでしょう。
身延では、本尊が境内の売店で1体数千円で売られているそうです。
お土産代わりに本尊が買われているのです。

偽物の力無き本尊ならそれもいいでしょう。
しかし創価の御本尊は絶対の力があるゆえに、強盛な信心で拝せば絶大な功徳が現れ、逆に粗末にすれば明確な罰が現れます。

御本尊は自分の命と同じなのだ、との決定した信心を教えなければ、受持し抜いていくことはできません。
受くるはやすく 持つはかたし さる間 成仏は持つにあり
と御聖訓にある通り、受けるだけ、受けさせるだけなら、ある意味、容易【たやす】いとも言えるのです。

同じ持たせるなら功徳の引き出し方を、しっかり教えていくべきです。
そのためには折伏させるのが一番です。
草創期の頃は、入会数か月にも満たない人が、どんどん折伏をしていったのです。
今のように、入会10年、20年で1世帯もやってない、というのを聞くことがありますが、それでは真の歓喜も功徳も味わえないのです。

信心は年数ではないのです。
一念に勝つか負けるかの因があります。
肚を決めて戦い、御本尊にお褒め頂けるような行動ができた時、御本尊に感応し必ず折伏は成就します。
惰性や諦めに負けた一念では、結果を出すことはできません。

どこまでも、自分が祈った通りに叶っていくのです。
折伏して自分以上の一級の人材にする、と決めて強く祈れば、その通りに叶います。

周りの幹部や同志がうるさいから、とりあえず誰でもよいので1世帯、と祈ればそれが叶ってしまいます。
折伏して皆に拍手喝采を受けたいから1世帯、と祈れば、周りから賞賛を受けた後は、組織にも着き切れないような結果となってしまいます。

自分の一念は恐ろしいです、誤魔化しがききません。
ですから、本当の折伏がしたければ、相手の幸福をどこまでも真剣に祈り切っていくことしかありません。

改めて、今生人界の思い出となる、真の友人への聞法・発心下種にまい進していきます。


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