寿量品講義

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今日は池田名誉会長の『方便品・寿量品講義(三)』を半分ほど読んだ。
本棚には同じ本が2冊あり、1冊は友人の所へ貸してきて、友人に読むよう勧めたのだから自分も改めて読まないとな、と思い約16年振りにひも解いたのだ。
その前に、壮年本部長から読むよう勧められたのもある。

寿量品では五百塵点劫という仏の長遠な寿命が明かされる。
その永遠の生命を持つ仏がなぜ死を現じるのか、との根拠が「方便現涅槃」である。

仏弟子や衆生は、仏がいつまでも生きておられると安心してしまえば、仏を求める心も、仏を敬う心も失ってしまい、その結果として信心が弱まり苦悩に沈んでいってしまう。

そうした弟子たちの依存心を断ち、渇仰の心、恋慕の心を起こさせ、自立した「一人立つ」実践者となるよう促すために、仏は方便として涅槃=死 を現じるのである。
しかし永遠の生命を持つ仏は、不惜の実践あるところに、瞬時に脈動し、世界中あらゆる所で生き続けているのである。

法華経は滅後のしかも末法に生きる私たち1人1人のために説かれた経典である。
未来の私たち衆生までも救わんがための、究極の慈悲と智慧の結晶なのである。
一般論としても、自分の代さえ良ければいい、死んだあとのことはどうなっても構わない、というのは指導者のエゴであり無慈悲であると、先生は仰っています。
自分亡き未来を見据えて人知れず手を打ってこそ、真の指導者であると。
ですから、人を不安に陥らせるだけの終末論は仏法とは無縁なのである。

「遣使還告」~けんしげんごう とは寿量品で説かれる「良医病子」の譬えにおいて、毒を飲んで苦しむ我が子が、本心を失って、どうしても良薬を飲もうとしないので、方便の故に使いを遣わして「父は他国へ行き、もうすぐ死ぬだろう。お前たちは、ここに置いた薬を飲むように」と遺言する。
この使いの者が、地涌の菩薩なのであり、仏滅後に妙法を弘め、苦悩に沈む衆生を救っていく「仏の使い」なのである。

私如きが解説し直そうとしても、二番煎じでしかも読んだ醍醐味をほとんど紹介しきれないが、志しある人はまた熟読されることをお勧めする。

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