随自意と随他意

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今日、体が回復したということで、内外6軒を回り全て会えました。しばらく振りの訪問ということで、実りある対話ができました。特に1軒の近所のお宅では、しばらく中断していた仏法対話を進めることができました。

 

それでは今回は、法華経と法華経以外の教えの違いを明確にした、「随自意」と「随他意」について、先生のご指導を学びましょう。

 

 

東北栄光総会、第一回宮城県総会から 1994年3月

 

法華経は随自意に説かれた経
仏法には「随自意」と「随他意」がある。随自意は、人々の機根にかかわらず、仏法の真実の法理をそのまま説くこと。随他意は、人々の好みや機根に合わせて説くことである。法門のうえで見ると、法華経は、随自意の ”真実の” 教えである。

 

(中略)
衆生の好みに、ただ随うだけで、真実の法を説かなければ、衆生は愚かなままである。真実でないものを真実だと思い込んでいる。衆生に合わせるゆえに、どこまでいっても「衆生の心をいでず」──凡夫の境涯を出ることはない──と。随他意では、永遠に仏界の境涯には導けない。本当に人を救うことはできない。人を幸福にできない。それでは何のための仏法か。随他意は、ただ法華経に導くためだけに意味がある。随自意の根本精神を捨てて、随他意を用いることは法華経の死である。転倒であり、正法の信心の破壊となる。恐ろしいことである。

 

──法華経というのは、随自意といって、仏の御心を説かれたのである。仏の御心は素晴らしい心なので、たとえ、よく知らない人であっても、法華経を読みたてまつれば、利益は計り知れない。(中略)たとえば、麻の中に育つよもぎ、まっすぐな筒に入れた蛇が自然にまっすぐになり、よき人々と仲良くする人は、自然に心も、振る舞いも、言葉も、正しく、まっすぐになるようなものである──。

 

(中略)
「随自意」で堂々と広宣流布を
創価学会は、尊貴なる仏勅の教団である。その素晴らしさを、ありのままに随自意で示していけばよい。そうすれば自他ともに功徳を受ける。(中略)芸能のことなら芸能評論家が知っている。スポーツのことならスポーツ界の人に聞くべきである。科学のことなら科学者がくわしい。それぞれに専門用語も使い、その解説もする。そして最も大切な、真実の仏法哲学を知っているのは私どもである。

 

「仏法のことなら私たちに聞きなさい」「仏法用語も、私たちが教えてあげます」「創価学会にのみ、真実の仏法は脈動している」──この大確信があるからこそ、学会は王者であり、大将軍なのである。(拍手)

 

言うまでもなく、随自意を根本としたうえで、時に応じて随他意が必要な場合もある。大聖人も「四悉檀を以(もっ)て時に適(かな)うのみ」と仰せである。(中略)社会の変化、特質、伝統、人々の理解度に応じて、仏法が ”心に入る” よう、知恵を使っていくことは当然である。その努力なくして広宣流布はない。また、仏法の人間主義に基づき、あらゆる角度で、平和・文化・教育の次元で、社会に大きく貢献していくことは当然である。その大運動の根本となるのが、随自意の実践であり、「人々を救おう」「絶対に幸福にしよう」という慈悲の行動なのである。

 

随自意でいけば、当然、反発もある。大聖人も、あらゆる迫害を一身に受けられた。随他意であれば大難はなかった。あえて随自意で進み、難と戦い、難を乗り越えて仏になっていくのが、大聖人の仏法なのである。最初は反発があっても、妙法を説き聞かせたことが因となって、反発した人も、将来は必ず成仏できる。これを「毒鼓の縁」という。

 

仏法に無知な世間に迎合し、見栄を張って、言うべきことも言わないようでは、毒鼓の縁すら結べない。結局、無慈悲なのである。一切の根本は、随自意で広布に進みゆく「勇気」である。これが大聖人、日興上人の教えである。そして牧口先生、戸田先生の大精神である。勇気が慈悲に通じ、勇気は知恵に通じる。「臆病にては叶うべからず」──臆病であっては何事もかなわない──との大聖人の御言葉を、今こそ、眼を開いて拝さねばならない。

(池田大作全集第84巻所収)

 

 

随自意で広布に進みゆく「勇気」こそ一切の根本

 

 

 


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