御書を拝読していく中で、改めて気づいたことなどを書いていきます。
第1弾は「守護国家論」です。
此の外に今仏出来して法華経を末代不相応と定めば既に法華経に違す知んぬ此の仏は涅槃経に出す所の滅後の魔仏なり之を信用す可からず、
其の已下の菩薩・声聞・比丘等は亦言論するに及ばず此等は不審無し涅槃経に記する所の滅後の魔の所変の菩薩等なり、
(中略)
善導等若し権者ならば何ぞ竜樹・天親等の如く権教を弘めて後に法華経を弘めざるや法華経の告勅の数に入らざるや何ぞ仏の如く権教を弘めて後に法華経を弘めざるや、
若し此の義無くんば設い仏為りと雖も之を信ず可からず
(守護国家論 p.76 後ろから7行目)
「魔仏」「魔の所変の菩薩等」という言葉は、意識して読んだのは初めてです。
もし末法において、「法華経では成仏できない」と言う仏や菩薩がいたとしたら、それは魔の仏(=まぶつ)であるというご指南です。
そして、その仏に連なる菩薩なども、魔が変じて菩薩などの姿を現しているに過ぎないとの仰せです。
魔仏という表現に驚くとともに、こういう御書があったんだ、との新しい発見に二重の感動を味わいました。
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