私が20代のころ、職場の昼休みや、帰宅後、土・日に、同僚に仏法対話を繰り返しました。
それに対して、三類・三障の圧迫・迫害が御書にある通りに、これでもかという位に起ってきました。
それは、1人の前途ある有望な青年を抹殺してやろう、ツブしてやろう、再起不能にしてやろう、との悪意の包囲網でした。
悪は利害等によって簡単に結託するという浅ましくも恐ろしい姿でした。
彼らからしてみれば、偏見を持つ宗教による布教にいかに不快感を持ったにしても、同じ人間が人間に対して、ここまで冷酷に無惨になれるのであろうか、との仕打ちでした。
心に大きく傷を受けた私は、23年経った今もメンタル・クリニックへ通院しています。
唱題・活動などに励んでいますと多忙ですし、日々の生活闘争もあり、大昔のことにいつまでもこだわって、思い出す暇もありませんでした。
しかしそうは言っても、時々、フラッシュバックのように、当時を思い出すのです。
あんな理不尽な仕打ちをした人々に、何度、心の底からの怒りを持ったことか、その激情は凄まじいものでした。
考えてみれば当時、肉体的暴力は受けませんでした。
口によるものだけでしたが、その心の傷が大きく癒【い】えるまで、23年もの歳月を要したことが1つの驚きです。
ここで御書を1つ拝読します。
されば国主等のかたきにするは既に正法を行ずるにてあるなり、
釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ、
今の世間を見るに人をよくなす(成)ものはかたうど(方人)よりも強敵が人をば・よくなしけるなり、
(中略)
日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信・法師には良観・道隆・道阿弥陀仏と平左衛門尉・守殿(こうどの)ましまさずんば争(いかで)か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ。
(御書917ページ)
釈迦にとっての提婆達多、日蓮大聖人にとっての平左衛門尉は、ありとあらゆる迫害を加えてきた、生涯にわたる最大の敵でした。
その強敵を大聖人は、第一の善知識と言われ、第一の方人つまり味方、とまで仰っています。
この御書は私にとっても本当に難信難解でありました。
23年かけて、3000万遍のお題目を唱えて、やっと多少は信心で解るようになってきたと思います。
この御文は大聖人にとって大勝利宣言でもあった、と拝したい。
勝ったからこそ言える言葉なのです。
負けてしまっては、決して言えない一言なのです。
文字通り御命が狙われた竜の口、そして二度と生きて帰れないと言われる佐渡への流罪など、打ち続く大難をすべて乗り越え勝ち切られました。
恨みや憎しみにとらわれることは微塵も無く、すべてを勝ち切って、悠々と見おろすような、最高峰のご境涯に立っているのです。
自分に対して最も厳しく接し、苦言を呈し、この御書の例では迫害し抜いてくるような存在こそが、実は最も自分を成長させてくれるのです。
一般的にも、人間をダメにする一番の方法は、甘いことを言って何でもその人の好きにさせること、だそうです。
自然に任せて生きる、好き勝手に生きる、というのは、その人を急速にダメにしてしまいます。
「強敵こそ善知識であり味方である」
考えれば考えるほど、凄い教えです。
この御文について、池田先生は次のようにご指導されています。
権力者から憎まれることは、正法を行じている証拠である。
敵もいない、批判もない、迫害もない、すべてが順調ななかで信心できれば、良いように思えるかもしれない。
しかし、それでは「真実の大聖人門下」とはいえない。
敵がいるからこそ、本当の力が出る。迫害があるからこそ、真剣な仏道修行ができるのである。
そうとらえて、「悪」をも「善知識」に変えていくのが仏法である。
(’95-10-6 池田先生の指導)
敵がいるからこそ本当の力が出る、迫害があるからこそ真剣な修行ができる、本当にその通りです。
強敵に遭ったなら、喜んでいくぐらいの強い信心で、前進していきます。
【追記】
1.この記事は、みかんさんとのコメントによる対話から、ヒントときっかけをもらいました。
この場を借りて、感謝申し上げます。
2.いつまでも過去のことをほじくり返して、こだわり続けるのも未練がましいでしょう。
なぜその位のことに悩むのかと、当事者にならなければ理解しにくい部分もあるでしょう。
この昔の体験については、お陰さまで充分に語らせてもらいました。
したがいまして、今回を持ちましてこの件に関しては、終了にしたいと思います。
ここまでおつき合い頂き、有難うございました。
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