有信無解

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御書のある御文を探したいのだが、どのページだったかが解らない。
ネット御書で検索するか、または要文索引で調べるのが、まず普段の方法だ。

私の場合、自作の手書きの索引を作成し続けて、もうかなりの年数が経つ。
「あれ? あの御文はどこだったかな?」
という時に非常に役に立つ。

しかし今回はこの自作索引からも漏れていて記入されてないし、他のどの方法でも探し当てられない。
昔はこういう時には、上の幹部の人に直接電話して聞いたりしたこともあった。
でももう深夜だし、これが解るまで今日は床に就けそうにない。

しばらく探して、
「仕方ない、もうあきらめようか」
と、御書や書籍等をしまおうとした時、「解 ‐げ」という字が確かあったはずだと思い当たり、要文索引に当たってみると、何と、見つけることができたのである。

余談だが、方面幹部は御書や先生のスピーチ、学会指導などを過去のすべてのデータから検索をかけられるシステムを使える、と過去に聞いたことがある。
自分の立場では、別世界の話だが、それはあくまで余談。

今日、それなり苦労して、探し当てた御文は次の通り。

有解無信(うげむしん)とて法門をば解(さと)りて信心なき者は更に成仏すべからず、

有信無解とて解(げ)はなくとも信心あるものは成仏すべし、

皆此の経の意なり私の言にはあらず
されば二の巻には「信を以て入ることを得・己が智分に非ず」とて
智慧第一の舎利弗も但此の経を受け持ち信心強盛にして仏になれり
己が智慧にて仏にならずと説き給へり、

舎利弗だにも智慧にては仏にならず、
況や我等衆生少分の法門を心得たりとも信心なくば仏にならんことおぼつかなし
(御書p.1443)

学会書籍等を読むことも大事であるが、それらは決して主ではない。
折伏の行動、広布の行動をしないで、いくら本ばかり読んでいても、教学を研鑽だけしていても、大聖人からのお叱りを受けること必至である。
単なる物知りを作るのが仏法の目的でないのは言うまでもない。

法門の理解よりも何よりも、信心であり実践が仏法の魂なのである。
御書に仰せの通り、学会指導の通りに戦い切れば、必ず自他ともに幸福になれると確信して実践していくなかに「有信無解」「有信有解」の信心が脈打つのである。

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