信心が試される時(3)

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では、諸天善神がその人の信心を試すことがある、ことに関して御書を拝してみましょう。

されば・いにしへ(古)の聖人・賢人と申すは命を仏にまいらせて・仏にはなり候なり。
いわゆる雪山童子と申せし人は・身を鬼にまかせて八字をならへり、
薬王菩薩と申せし人は臂(ひじ)をやいて法華経に奉る、
我が朝にも聖徳太子と申せし人は・手のかわ(皮)をはい(剥)で法華経をかき奉り、
天智天皇と申せし国王は無名指と申すゆび(指)をたいて釈迦仏に奉る、
比れ等は賢人・聖人の事なれば我等は叶いがたき事にて候。

ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へ(得)て仏になり候なり、
志ざしと申すは・なに事ぞと委細にかんがへて候へば・観心の法門なり、
観心の法門と申すは・なに事ぞとたづね候へば、ただ一つき(着)て候 衣を法華経にまいらせ候が・身のかわをわ(は)ぐにて候ぞ、

うへ(飢)たるよ(世)に・これはな(離)しては・けう(今日)の命をつぐべき物もなきに・ただ(但)ひとつ候ごれう(御料)を仏にまいらせ候が・身命を仏にまいらせ候にて候ぞ、
これは薬王のひぢ(臂)をやき・雪山童子の身を鬼にたびて候にも・あいをと(劣)らぬ功徳にて候へば・聖人の御ためには事供やう(じくよう)凡夫のためには理くやう(り供養)・止観の第七の観心の檀ばら(波羅)蜜と申す法門なり
(御書p.1596)

供養に事と理の2つがあり、賢人・聖人のためには文字通り身命を捧げる事供養、凡夫のためには志ざしを重視する理供養がふさわしいと明かしています。
尸毘王の説話で見たように、自分の肉を割いて供養するなどということは、凡夫には不可能であり、そもそも現代社会でそのような行為をしたとすれば、到底受け入れられない異常でかつ非人道的行為として糾弾されるでしょう。

そのため凡夫には理供養として、ただ1つしかない衣を供養するのが身の皮をはぐことになり、或いはそれが無いと今日の命を継ぐことができなくなるたった1つの食べ物を、供養するのが身命を供養するのと同じであると仰せです。
このことは、生命こそ一切の財のなかで最第一の財であり、その生命を支える二つの財が衣と食であるからです。

ところで衣・食を仏に供養するのが凡夫の供養であり、成仏に至る道であるとすると、多く供養できる金持ちや資産家だけが成仏できるとの差別を生じてしまいます。
そこに、「志ざし」が大切であるとされる所以があります。
真心が大事なのであって、財の量や価値の高低は問題ではないのです。

自身の生命を維持できなくなる恐れがあるのに、それでも着物や食物を仏に供養しようとする凡夫の「志ざし」すなわち信心の真心や至誠の一念こそが、凡夫を成仏させる根本なのです。
そのような「志ざし」をもってなされた御供養は聖人・賢人の捨身供養に劣らぬ功徳を生じて、成仏することができるのです。
このことを「観心の法門」と説かれています。

各各(おのおの)・随分に法華経を信ぜられつる・ゆへに過去の重罪をせめいだし給いて候、
たとへばくろがね(鉄)をよくよくきたへ(鍛)ばきず(疵)のあらわるるがごとし、
石はやけばはい(灰)となる金(こがね)は・やけば真金となる、

此の度こそ・まことの御信用は・あらわれて法華経の十羅刹(らせつ)も守護せさせ給うべきにて候らめ、
雪山童子の前に現ぜし羅刹は帝釈なり尸毘王のはと(鳩)は毘沙門(びしゃもん)天ぞかし、
十羅刹・心み給わんがために父母の身に入らせ給いてせめ給うこともや・あるらん、
それに・つけても、心あさからん事は後悔あるべし
(御書p.1083)

大聖人はこの兄弟抄で、父からの勘当事件の渦中にあった池上兄弟に、〝兄弟に本当の信心があらわれたので、諸天善神の加護は間違いない〟と仰せの上で、仏典に登場する雪山童子や尸毘王の例を挙げ、諸天善神は時として、その人の信心を試すことがあると示されます。

本来、法華経の行者を守るべき諸天善神が、なぜ、難という試練を与えるのでしょうか。
それは、難を受けるのが必定である法華経の行者にとって、「不退転の信心」こそが「成仏の因」となるからです。
難に打ち勝つ信心を鍛えるために、諸天善神は、あえて試練を与えるのです。

しかし、「必ず心の固きに仮(よ)って神の守り則(すなわ)ち強し」(御書p.1186)と仰せの通り、こちらの信心が強盛であれば、諸天の加護は絶対に間違いないゆえに、何があっても一歩も引かない心、不屈の信心が重要なのです。

長文になりまして申し訳ありません。

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