最近見た映画・ドラマは以下の通り。
・隠し砦の三悪人 良い ☆☆☆☆
迫力、映像、キャスティング、ストーリー、何拍子も揃った見ごたえのある映画だった。
職業訓練学校の方は10月26日で、1ヶ月に渡る講習を修了した。
皆さん、楽しく真摯【しんし】に受けられていたのが印象的だった。
色々と大きく良い感化を受け、充実した講習であった。
学んだことを大きく活かしていきたいと決意しています。
次にまた仏法について考えてみたい。
「還著於本人【げんちゃくおほんにん】」
「過去現在の末法の法華経の行者を軽賎【きょうせん】する王臣万民始めは事なきやうにて終【つい】にほろびざるは候はず」(p.1190)
という法門がある。
平左衛門尉は幕府の軍事長官・警察長官の要職を務めた人物であったが、さまざまに大聖人とその門下に迫害を加えた。
熱原の三烈士に鏑矢【かぶらや】を射って殉教させたのも、この平左衛門尉とその長男であった。
鏑矢【かぶらや】というのは、放たれるとその矢の穂の部分の作りによって、回転しながら風を切り独特の音響を発しながら飛び、標的を射る。
この音によって、単なる矢以上の威圧感を罪人に与えるのである。
この鏑矢を何度も何度も体中に受けて三烈士は殺された。
実は、富士方面の折伏・弘教を快く思わない勢力から密告された、三烈士たちに対する他人の田畑を不法に蹂躙【じゅうりん】したという、根も葉もないデマによる処刑であった。
しかし、三烈士をデマで処刑した平左衛門尉はその後間もなく、謀反の咎【むほんのとが】で長男とともに幕府によって処刑され、一族郎党すべて断絶される。
平左衛門尉とその長男の処刑が、まさに鏑矢【かぶらや】を射られての死刑であり、その場所も彼らが三烈士を殺した自分の屋敷においてであった。
法華経の行者を迫害した当人が、同じ方法・同じ場所で命を落とすことになったのである。
正に「還著於本人=還【かえ】って本人に著【つ】きなん」という、巡り巡って必ず迫害者本人に還ってくる、自分が苛【いじ】めた方法によって今度は自分が苛められる、という現罰なのである。
この罰と功徳は、御本尊に明確にお認【したた】めである。
御本尊には向かって右の肩に、「若し悩乱する者あれば、頭【こうべ】われて七分になる」、左の肩には「若し供養する者あれば、その福は十号に過ぎる」とある。
創価学会を讃嘆しゆく者は無量に福徳を積むことができるが、反対に、学会(員)を誹謗し悩ます者は無間に罰を受けていく、との意味である。
一生懸命に妙法を実践している人と、反対に、怠【なま】け遊び暮らしている者や、誹謗・中傷や迫害を加えてくるような者が、同じということは絶対にないのだ。
必ず、その人の行動に応じて、功徳または罰がはっきり現証として現れる、絶対の力ある御本尊である。
さらに言えば、そのように正邪の明確なる現証という決着を就けゆく、我々1人1人の執念の戦いであらねばならない。
間違っても、苛【いじ】められているのに黙って泣き寝入りするような、単なる「お人好し」であってはならない。
「仏法は勝負」である。
迫害者には罰の現証を厳然と受けさせることが、本当の深い慈悲となるのである。
日興上人は五老僧の邪義にとどめを刺すのに、50年の歳月と闘争を要した。
我々も、何十年かかっても(極)悪への決着を、明確な上にも明確に、断じて刻印していきたい。
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