野干と帝釈

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書籍『御書にみる説話』

 

1978年5月発行とけっこう古くなりましたが、『御書にみる説話』という書籍から学びます。

 

 

『御書にみる説話』創価学会教学部編、から

 

野干と帝釈

「乙御前御消息」には「天の帝釈は野干を敬いて法を習いしかば今の教主釈尊となり給い・・・」(御書 全1222㌻)とあります。

 

帝釈といえば、全世界を統治する、力と徳をそなえた大王として、よく経典に出てくる名です。それに対して、野干(やかん)とはキツネの一種で、力の弱い、臆病な卑(いや)しい獣だといわれています。帝釈にとって野干などは、取るに足らない小さい存在です。ところが帝釈は、その野干を敬い、師と仰いで法を習ったというのです。これは仏典に、次のような物語が、説かれています。

 

――昔々、毘摩大国(びまたいこく)にいた一匹の野干は、ライオンに追われる途中、枯(か)れた井戸の中に落ちてしまいました。ライオンの難は避けられたものの井戸の底から出ることができません。

 

野干は「いたずらに餓死するなら、むしろライオンに食べられた方がよかったのに・・・」と言って、仏の名を唱えます。すると、この仏の名を聞いた帝釈は、下界に下りてきて井戸から野干を救い出し、高座をしつらえて安置して「どうか今、唱えられた仏の説かれた法を教えてください」と願いました。帝釈は、野干を師として法を求めたのです。この時の帝釈こそ、後の釈尊だったというのです――。

 

この帝釈と野干にまつわる説話は、仏法を求める者は、決して貴賤(きせん)・上下にとらわれずに、だれでも自分より仏法を知っている者に対しては、尊敬をはらって教えを求めるべきことを、示唆(しさ)しています。

 

野干と帝釈

 

 

 


【感 想】

「野干と帝釈」の説話は、相手を地位・名声・学歴・財産等で判断せず、仏法を知っている者には求道の心で尊敬をもって、法を習うべきことを示しています。私たちは、相手の外見の姿や権威などでついつい評価しがちです。しかし、そうした外見を飾るものに頼り、紛動されるだけだとすれば、ある意味で本当の力が無い証拠なのです。

 

「仏法を知る」ということについては、学無学という言葉があるように、本来の「無学」という用語は、未だ学ぶべきことがある「有学」に対して、もう学ぶべきことが無い、という意味です。学会草創から折伏行に戦い抜いてこられた方々は、例え難解な教学は知らなかったとしても、全てを学び尽くしもう学ぶべきことが無い方々である(趣意)と、先生は仰っています。

 

また、法蓮抄1419ページ(新版)に、「現在に眼前の証拠あらんずる人この経を説かん時は、信ずる人もありやせん」と、現実の実証を示すことの大切さを強調した御文があります。創価学会がこれほど全世界に弘まったのは、一つ一つの戦いで見事なる「眼前の証拠」、すなわち勝利の実証を打ち立てて来たからに他なりません。

 

しかし、この御文を曲解してはならないのは、誰からも見事と賞賛される実証が無ければ、法を説いてはならないということでは決してないのです。また、実証が未だ出せないという一事によって、苦闘のただ中の人は信心が弱い、ということでもありません。

 

草創の頃は、「あんたが幸せになったら仏法の話を聞いてやる」などと侮辱され、塩をまかれても脅されても、ひるまずに弘経に果敢に挑戦していったのです。実証は確かに目指すべきである。しかし、実証が出ないうちは広布に戦えないとしたら、それは本当の信心ではないと思います。

 

創価の素晴らしさを語っても反発された時、自身の力不足を心の底から痛感します。その悔しさが、「必ず、人間革命するぞ。実証を示すぞ!」との、未来の勝利の因となり胸中に刻まれるのです。

 

仏法に無知ゆえに何を言われようと、ただひとすじに、創価の大福運・大功徳の人生を共に歩みゆこうと叫び祈りきっていきます。創価学会にみなぎる「生命の底力」を体現していけるよう、一段と精進してまいります。

 

 


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