また御書を二編拝読します。
少し前に掲載し取り止めた記事の復活です。
過去現在の末法の法華経の行者を軽賎する王臣万民始めは事なきやうにて終(つい)にほろびざるは候はず、
(p.1190聖人御難事)
末法の法華経の行者(=学会員)を軽んじ見下す権力者や人々は、必ず最後は亡んでいきます。
1人の例外もあり得ません。
「始めは事なきようにて」すなわち悪口・迫害などを加えていても、初めは罰は何も無いように見えるのです。
それでいい気になりカサにきて、誹謗中傷や迫害をしてくる場合がありますが、3年、7年、数十年と経て必ず亡びの姿を現じていきます。
始は信じてありしかども世間のをそ(怖)ろしさにすつ(捨)る人人かず(数)をしらず、
其の中に返つて本(もと)より謗ずる人人よりも強盛にそしる人人又あまたあり、
在世にも善星比丘等は始は信じてありしかども後にすつるのみならず返つて仏をはう(謗)じ奉りしゆへに仏も叶い給はず無間地獄にをちにき、
(p.1088兄弟抄)
いかに傲慢な態度や物理的・社会的な力を使って圧迫を加えてきたとしても、迫害者や退転者の命の本質は臆病なのです。
「世間の怖ろしさ」とあるように、人の目にどう映りどう思われるかという世間的体裁にとらわれ、社会の中で受ける目先の損失に対する恐怖心です。
本当は信心の上で、一時的に目先のことでは損に思える出来事が起っても、長期的に一生涯で見ていけば、絶対に大きな大きな得をするのが信心です。
牧口初代会長の「価値論」で言えば、美・利・善の最高価値を獲得し切って行けるのが、創価学会の仏法なのです。
その道理を信じる信心が弱いため、御仏智が得られず、目先の損得に惑わされてしまうのです。
そして退転者は元々謗【そし】っていた人々より何倍も、たちの悪い誹謗をしてくる者も多いと仰せです。
戸田第2代会長は、「退転者は、惨めな姿を自分から見せに来る」と言われています。
また、「退転者の屍【しかばね】を踏み越えて進め」とも指導されました。
これより改めて勇気ある前進をして行きます。
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